歌は嘘をつきません
声は人間の本質のことであって、その人の人間性がそのまま響きにかわつたものなのです。そのことから、昨日述べたように、声を繕うようにして作っても、意味がないというわけです。そんなことをしたら声とその人の人間性の間に大きな溝を作ってしまうものだからです。
私たちは自分のことをよく知らないまま生きています。よく考えると空恐ろしいような気がしてきます。あまりに無責任なような気がするからです。
同じように自分の声のことを知らずに声を使って生きているのです。自分の声を聞けばいいのかというと、そんな簡単なものではないのです。まず自分の声を録音して聞いてみてください。何人かの人と一緒に順繰りに喋って、その録音したものを聞くと、他の人の声はその通りに聞こえるのに、自分の番のはずなのに、そこで聞いている声は自分の声ではないのです。自分の声だけがわからないという奇妙なことが起こっているのてず。その時一緒に録音した人に聞いてみると、そのわけのわからない声は、紛れもなく自分の声だというのです。
発声法やヴォイトレーニングは声をなんだと定義づけているのでしょう。大体はそこのところが欠けています。私には一番重要な出発点なのですが、そこには言及しないのです。そして次に声をどこに持ってゆこうとしているのかということですが、これも用途によって分けられているようです。声楽的に使おうとしている人もいれば、役者を志している人たちは、舞台での声が客席に届くようにと願っています。しかし声をそのように用途によつて分けてそのための声作りをするのは考えものです。もっというと滑稽です。なぜかというと、そんなことをしたら声が壊れてしまうからです。声は自分の本質から離れてゆくとどんどん力のない声になってしまうものです。力を入れれば大きな声を出したりはできますが、その人の人間に根っこを持たない声は、嘘をついているようなものですから、声から本当が聞こえてこないのです。
私個人の物差しなので、他の人に勧められるものではないのですが、声の指導をしている人がどのようなものなのかを知りたいときには、その人が歌うのを聞けばその人の指導の方向性がすぐにわかります。専門的な耳を持っていれば整理することができますか、素人でも声に興味があるほどであれば、直感でわかります。指導者の歌が聞けない時は、その人を信じないようにしています。発声法のセオリーが非の打ちどころのないようなものでも、その指導者の歌が納得できないようなものであれば、その人と声についてお話ししてもギャップが大きいので、なんの役にも立たないことは経験から知っています。皆さんももし声のことで少しトレーニングをしてみようかと思うのでしたら、指導を受けようとする人の歌を聞いてみてはいかがでしょうか。すぐにその指導者のやりたいことがわかります。納得したらその人の指導を受けてみたらいいと思います。
歌は嘘をつかないのです。歌っているとき、人間は案外いい人なものなのです。