翻訳機と言葉のバネ
言葉にはバネがある。ジャンプ力のようなもので、意味でつなげようとする人間の浅知恵を見えないところで支え、言葉を生き物にしている。何がバネかというと色々あるが、その一つはほとんど意味をなさないような、つまりそれがあってもなくても意味には変わりないような小さな単語です。何語かという区別はなく、ほとんどの言葉がこうして活力を得ていると思います。
意味を説明するために辞書があり、言葉の仕組みを説明するのに文法があるのに、言葉のバネを説明するものが何もないのは実に不思議です。しかしそんなものなくても、言葉を使う人たちは直感的にそのジャプ力を使いこなしているのですから、人間は捨てたものではないと感動します。
意味が言葉の主要目的であるとすれば、箇条書きですむし、必要なことだけを連ねることで用が足りるわけなので、ジャンプ力は使われなくなるでしょうから、退化してしまい、その結果言葉は硬直化してゆくことになると思うのです。
今はSNSが普及しているので、なるたけ短く、必要なことだけを書くような習慣が社会的に蔓延してしまって、昔でいうところの「電報のような簡潔なようを足すだけの言い方」が普通になってきているような気がします。これでコミュニケーションが便利になったと喜んで良いのでしょうか。現代人の言語生活にはバネが邪魔になっているのかもしれない、と思うこともあります。そしてそれがこれからさらに深く定着してゆくと、言語生活ばかりか、思考生活の方にも影響が出てきて、人間の思考にもバネがなくなってゆくのかもしれません。そうなると一般論が一人走りし蔓延して、世界中がおんなじように考えることになるのかもしれまないと危惧してしまいます。これは、実際には洗脳と言って良いのかもしれない。強制されるわけではないですが、周囲からの圧迫で、日本で言う世間体に従い、知らず知らずのうちに洗脳されたに等しい状態が生まれてしまうように思えてならないのてす。
実は言葉の持つジャンプ力はそれぞれの言葉特有のものです。ですからドイツ語ならドイツ語のジャプ力があり、英語には英語のジャプ力があるので、個人の自由でどうこうなるものではないのですが、意味の強制、制約、言論の統制のようなものとは違い、そもそも権力に結びつきようのない弱者ですから言葉に花を添える程度のものです。ところがいざ翻訳をしようすると、この見えない曲者が案外翻訳者を悩ませるものであもあるのです。何年か前にノーベル文学賞を取られた、日本生まれのイギリスの作家、カズオ・イシグロさんが、現代の作家たちは、他の言語に翻訳してもらいたいために、意図的にその言葉に特有の表現をわざわざ回避して、世界共通の言い回しを使うような傾向がある、と警告していました。
翻訳機が普及すると、外国語習得の手間が省けるようになるのでしょうが、この言葉のバネも消えてなくなってしまうような気がして、なんとも寂しい限りです。