オックスフォード・マーマレード作りの合間から
昨日はブログに自我のことを書こうと考えて、準備もなく(いつものことです)始めたのですが、案の定座礁して二進も三進もゆかなくなり、オレンジが買い置きしてあったのを目にしたのでマーマレードを作ることに方向転換して気分転換を計りました。マーマレードはなんとかできたのですが、自我の方は一向に話が進まずにいます。難しくしている要因の一つは、自我については今までに何千、何万と書き尽くされ、言い尽くされているので知識としては多すぎるほどの量が江湖に溢れていて、今更私ごときが口を挟む問題ではないということのようです。それでもと頑張ってみたのですが、やはりハードルは高く飛び越えられずにいます。周りのせいにしている様では自分の成長によくないと鉢巻を締め直し、自我に向き合えば何か私にしか言えないものが見えてくる筈だと暗示をかけているのですが、なかなか。
そんな中で、自我は、実は見えないものであるが故に大きな力を発揮するものだということが直感の向こうからうっすら見えてきたので、そこら辺を手がかりに書いてみます。
以前にも書きましたが、目を観察すると不思議な現象があって、視神経という見るためにある神経がたくさん集まっているところが、かえって何も見えていないということです。まさに見事な逆説を自然界はやってのけているわけですが、自我というのもなんだか似ている様な気がしています。
つまり自意識という、自我のことをしっかりと見据え、把握し、理解していると普段は考えられているものが、強くなればなるほど、自我というのはかえって見えなくなってしまうものの様です。自意識は、視神経の時のように、自我を見つけるための道具にはならなくて、自我をあるかのように主張するには便利なものの様ですが、自我そのものに向かうと全く無力なものだと言うことの様です。よく経験するのが、自意識が強い人ほど自分のことが分つていない、自分がお留守になっていると感じるのはそこです。自分は主張すればするほど本来のところから離れてしまっているのです。
そこで便利な言葉を編み出して、エゴと名づけたわけです。エゴも自分の一種と見做します。しかしまだ自分になり切らずにいる、未熟な自分としてエゴにも正当性を与えるのです。否、与えてしまうのでず。そうするとエゴが大威張りで闊歩できるわけです。
このエゴと言うのは仏教がいう無明のことですではないかと想像しています。薄ぼんやりした中にいるので、いまだ本当のことが見えていないのです。いずれ明るくなったらと期待しているのでしょうが、あにはからんや、本当のことが見えるかというと、見えた瞬間に消えてなくなってしまうと思います。
自我にもよく似たところがあって、自我に出会えるのはほんの一瞬だけということの様な気がします。運が良ければですが。つまり躍起になって探せば探すほど徒労だということです。
しかし存在不明のような自我ですが、居所が不明でいるからこそつからを発揮することができるというのが、自我が実は霊的であるということの証拠の様に思えてなりません。透明であるが故に、有るかないか分からない様なところが一番霊的な力が働いているのでしょう。
一度霊の世界から人間の自我というのを見てみたいものだと切望しています。