直感型 - 型紙やレシピを捨てる方法

2013年1月7日

音楽で、しかもライアーの様な無名の楽器で新しいインパクトを社会的にもたらせたらなんて飛んでもないことを考えています。すこし法螺吹きが過ぎるかもしれません。

 

理由はというと、最近の音楽づくりがどうも型紙的になっていることです。個性的ということをいろいろなところで聞くわりには音楽はとても非個性的になっています。最近聞きあさった、ドヴォルザークの「しじま」「森の静けさ」の印象を言うと、みなさん儀儒的には申し分のないものを以っていらっしゃるのですが、you tubeで見る限りですが、みなさん同じ様な演奏をしていて、曲想の作り方、お音楽の盛り上げ方などは共通しています。

 

「こう言う風に音楽を作る」という基準があるのではないか、そんなことも考えてしまいます。みんなおんなじように考えているのかもしれないと思った時には、ぞっとしてしまいました。もしかしたらおんなじように感じているのかもしれないと思った時には、もっとぞっとしてしまいました。

 

クラシック音楽だけでなく、ジャズもポップもそう言う傾向が強く出ているという話しも聞きます。

 

シュタイナーが一般人間学の中で「最近工場から出て来る人の顔がよく似て来ている」という言い方をしていましたが、すでに百年程前のことですから、彼が今の人間を見たらなんというか。「みんな同じ顔をして生きている」と言うかもしれません。

 

規準が設けられて、それ以外のものを受け付けなくなるというのは危険です。最近のヨーロッパにはユーロー規準というのが至る所にあって、今まで民間医療で薬として使われていたものが、薬と認められなくなり、保険がきかなくなるのはまだいい方で、それを抹殺する動きまで見られます。人間は規準に見合った方法で病気を治す様になっているのです。そう仕向けられているのかもしれません。みんな同じ様に病気になって同じ様に治療されてしまうのでしょうか、なんだか味気ないものを感じます。

 

この型紙型思考、規準思考というのは意外と深いところまで浸透しています。だから音楽で規準以外のものを出してゆこうと考えているのです。

たとえばライアーはこう弾くもの、という風に考えているとします。これは立派な規準的ライアーです。これは壊さなければなりません。あるいはシュタイナーはこうやる物、これも規準です。この規準という枠を破るのが個性という力です。別の言葉で言うと自我です。ただ変わったことをする、型破りなことをして人目を弾くという程度では個性ではなく、奇をてらうだけの、反抗期的発想です。その程度では枠を壊すことにはならないのです。

 

シュタイナーは人智学を「料理のレシピ」の様にやってはいけないと警告していますが、きっと型どおりの人智学が嫌いだったのだと想像します。

 

私がフォイアマンの音楽を聞いて感じたのは、彼の一つ一つの音がまるで雫の様に天から降っているということでした。それは彼の直観のなせる業です。その瞬間にしか降りてこないものです。ですからもし同じ曲を二回続けて弾いても彼は違う様に弾いたかもしれません。

実際にあった話しですが、ピアニストのリヒテルがプログラムで弾いた曲をアンコールでもう一度弾いたことがあり、その時最初の演奏とアンコールの時の演奏が随分違っていたそうです。どちらがリヒテルの弾きたいものだったのかと論議するのは間違いです。どちらも彼のもとに降りてきた直観だったのです。リヒテルはその直観に忠実だっただけです。

 

直観というものがどう言うものか言葉で説明してもうまく伝わらないものです。ただひとつ言えることは、日々の訓練からしか得られないもので、しかもガツガツではなく、のんびりと腰を据えて長い時間をかけてようやく磨かれてゆくもの、ということです。

一日一日をどう生きるのか、これが意外と大切なことです。簡単な詰まらないことを繰り返しやりながら、ある時降ってくる物、それが直観です。

 

型紙でなく直観が創造的です。芸術はそう言うものだと思います。だから音楽という芸術の世界までが型紙的になっていることに不安を感じるのです。

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