理解以上のもの
人間同士が理解し合えたらいいとは思うのですが、それで十分かというと、そうではないようです。
先日人間同士が理解し合えたら争いごと、戦争、剥奪、盗み、暴力がなくなると思っている人がいて、その人にそうしたら平和が来るのですかと聞いたら「そうです」と即答が返ってきたので、私は「そんなことで世界は平和になりませんよ」と答えました。「ではどうしたらいいのですか」と聞き返されたので「お互いに尊敬し合うことができれば、世の中ずいぶん変わりますよ」とだけ言っておきました。
尊敬の念、畏敬の念と理解とは全然別のことです、別次元のことなのです。意識のレベルが違うとも言えます。
と言うのは理解というのは不可能なものであるはずだからです。相手の言っていることを理解しているという気持ちになった時のことを思い出してみてください。往々にして見下しているところがあるものです。理解というと聞こえはいいですが理解するというのはどこかで見下しているものなので、正直いうと冷たい人間がすることなのです。今の社会はみんながお互いに理解しようとしているふりをしているわけですから、冷たい人間の集まりだということなのです。
ある人に尊敬の念、畏敬の念を抱ける時というのは、その人を丸ごと理解していなくてもいいのです。そもそもそんなことはできないのですから。いつか理解できるようになるかも知れないという予感だけで十分です。相手に対しての敬意の念が生まれるためには条件があると思っています。敬意・畏敬の念というのは素直な心からしか生まれて来ないものなので、心が曇っていると違うものが生まれます。敬意は妬みとか嫉妬のようなものに見事に豹変します。嫉妬と敬意は紙一重なのです。敬意・畏敬の念が心の中に生まれるには心が澄み切っていなければダメで、翳りがあったり打算的にものを捉える人には敬意や畏敬の念は育たないのです。
それは感謝の心によく似ています。それがあれば人間関係は滑らかなものになって行くはずです。なんとも簡単そうに見えますが、反対です。簡単そうに見えるものが一番難しいということはこれまでにもずいぶん述べてきています。例えば名人の人の手捌きを見ていると、いとも簡単そうに見えるようなものです。感謝できるというのは人間として名人級であることの証です。人間として名人級にならないとできないものなのかも知れません。同じように、敬意・畏敬の念というのも相当人間が上等にならないと近づけないものなのかも知れません。
さて平和ですが、平和というのはそういうことができるようになった時に結果として付いて来るものなのです。敬うには健全な謙譲も必要です。