遊びの本質 その三

2013年1月10日

学習ができるのは能力開発で、それはそれで生きて行く上にはなくてはならないものだからないがしろにはできないものですが、それだけ人間として生きて行けるのかと言うと、それは疑問です。

人間的なもの、人間性と言われているものが社会生活を営むには欠かせないものです。社会成果で生じるいろいろな問題が、理屈だけで解決できないのです。そこでは人間的な力の方がずっと有益に働くことがあるものです。

この両方が備わっていれば、鬼に金棒です。

 

学習、勉強というのが今の教育全体の中心にあるものといっていいと思います。

しかし教育がそこにしか焦点を合わせられないとしたら、それは悲劇です。一面的な人間を作ってしまいます。

 

昔オーム真理教が社会問題になった時に、オームに集まっていた若者たちの多くが、いわゆる一流大学を出た、社会的にはエリートと呼ばれていい人たちでした。彼らはとても勉強ができた人たちです。ところが何かが欠けていたということは当時も随分言われたものです。「勉強以外の事をする時間が無かった」と言うことでしょう。その何かについては、御題目、念仏の様に当時のメディアは書きたと報道したにも関わらず、そこでの反省は、教育を変える力にはならなかった様です。とても残念です。

あんなに適した反省材料はないはずなのに、日本の教育界というのは、口先では偉そうなことを言いながら、実際には何もしていないのではないかと疑ってしまいます。

 

遊びというのは、学習する勉強するというものに比べると、一段低く見られています。

「遊んでなんかいないで勉強しなさい」

これほど日本を代表する親からの、先生からの提言はないと思いますが、これでいいのでしょうか。

「勉強ばかりしていたら、みんなオーム真理教の人たちの様になってしまいますよ」という提言は今ではすっかりなりを潜めてしまいました。

 

「遊ばなければ育たないものがある、だから人間は特に子どものときは遊びを本格的に教育の中に取り入れ、遊び心を育てるべきだ」これが社会的に論議される様になり、教育改革の原点になる日が来れば占めたものです。

なぜかというと、実はです、遊びは学習能力を高める隠れた才能があるからです。この才能を認めた人は本当に数少ないです。シュタイナーはその僅かの中の一人です。

 

しかも遊ぶと学習能力と共に、人間性も向上します。一石二鳥とはこのことです。

このことが遊びにできるのに、何故子どもを遊ばせておかないのでしょう。本当は、人類的に言えば、とても大きな損失なのです。勉強ばかりさせても、人類的には向上しないと思います。一見役に立つ人が増え、人類的には賢くなって行くかもしれませんが、それでは、二つ車のあるリアカーの一つの輪しか動かないというのに等しいのです。勉強ばかりしていると一つの輪しか動かせないのです。

遊びは違います。二つの輪を動く様にします。学習能力も、人間性も両方いっぺんに育ててしまうのです。

ですから、そろそろ教育も、遊びの持つ特殊能力に目覚めてもいいのではないか、そんな風に思うのです。

 

 

 

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