スピリチュアルからユーモアへ
ユーモアはもしかしたら合理性を宿敵として戦っているのではないかなんて考えるのです。そんな中で、今はやりのスピリチュアルというのは一見すると霊的なことを色々と示唆しているわけですが、実際には合理性という現代病を根本に持っているもののように思えと仕方がないのです。
シュタイナーの唯物的精神性、唯物的霊性という言い方はもしかしたら霊的な世界を物質に見合ったものに、つまり合理的に整理しようとするものを指していっているのかも知れないと思うのです。融通の効かないこちこちのスピリチュアリズムなんて、所詮物質主義なんだと思うのです。
もちろんスピリチュアルとは言っても幅の広い世界で、オカルトとスピリチャルの違いは何かというと実に微妙ですし、さらに霊的なことに言及している宗教として社会的に行動しているものとの違いも微妙ですから、スピリチュアルをめぐってはあまり厳密なことは言えないわけで、曖昧な世界なのですが、私にとっては、ただ単に例に対しての知識を超えた、哲学的な認識の世界に導く力があるかないか、さらにそこにユーモアへの理解があるかどうか、ユーモアに向かっているのかどうかが、霊的なことを口にするスピリチュアルな人たちを本物と認めるかどうかの資金石になっています。
ヨーロッパはここ二百年、三百年知的合理主義のようなものを中心に世界を築いてきたわけで、知的でないものには目もくれずに進んできました。そこでの宗教はというと、やはり知的なものを優先した、こちこちの冷たいものであったように思います。
千九百年台の終わりには、次に来る二十一世紀は精神的な世界が開かれるという期待が囁かれたものでしたが、二十三年が過ぎようとしている現在を見ると、霊的な知識はネットでもって振り撒かれ洪水状態になっていますが、そこには認識への道もユーモアへの道もほとんどなく、精神性とか霊性というのが未だこちこちで本物になっていないような気がしています。
ユーモアの本質は物質的なものからは生まれません。物質的であるものはコチコチで固く、角張っているものですが、ユーモアの依って来るところは水的なものですから、こちこちではなくまた固く硬直していることもなく、凍ることなどはありますが基本的には流動的で、どちらかというと丸みを帯びだ滑らかなものです。新しい時代は水に目覚めること言えます。水の本質に目覚めることです。水の有用性、特効性というこれまた合理性にまたがっているようなものではなく、今はまだよく見えていない水の全体像が掴めるような、水と真正面から向かい合えるような感性を培うことなのです。
水的な世界を基本に据えると、世界が違ったものに見えてくるものです。例えば経済なども今のように澱んである場所に溜まって腐ってしまうのではなく、流動的なものとして流れが生まれ動き始めるかも知れません。お金というのはそもそも血液のようなものなので、動くことで一番元気なのです。コミュニケーションなどにも大きな影響があると思います。今は話し合いというものが意見、つまり自己主張のぶつかり合いでだったり正当性を主張しているわけです。水的になっても、つまりユーモアで話し合っても基本的にはぶつかり合いです。もちろん水と水だってぶつかり合いますが、お互いが溶け合います。池に向かって二つの石を同時に投げてみてください。同時に水の輪が二つできます。それらは段々と大きくなり二つは近づき遂にはぶつかり合うのですが、それは石と石とが激しくぶつかり合うのとは違い、二つの輪はお互いを受け入れながら新しい模様を産んでしまうのです。それは驚くほど綺麗な模様です。
私だってユーモアのある人間かどうかと問われれば、なんと答えていいのかわかりません。ユーモアに憧れているだけかも知れないのです。ただユーモアの必要性は強く感じています。ユーモアが当たり前になるような世界を夢見ています。今の物質に振り回された乾き切った世界とは違い、水々しく潤った世界をです。