衣食住
人間らしいものをあげるとこの衣食住がすぐ思い付きます。自分の着たいものを着て、食べたいものを料理し、住みたいところに住む。もちろん全て要求を満たすために経済力が必要だという制約はあるにしてもです。
纏うこと、食べること、住むことは文化の根幹を作っているものです。人間は動物と違ってケースバイケースで着たいものを着ることができます。食べ物も火を使って好きなように調理できます。好きな所に居を構えることができます。
また民族衣装というものがあり、民族食と言っていいものもあり、民族を象徴する建築もあります。人間というのはそうしてみると民族を必要としていると言えそうです。民族という単位は文化を作る大切な単位と言えるのかもしれません。個人と民族が融合しているところで、人間の命は躍動しています。
今日のようなグローバル化が押し進められると、将来どのくらい民族が生き残れるのか、地上にどんな文化が生まれるのか疑問です。現実的には世界中が同じようなものを着るようになっています。ジーンズなどのファションです。また世界中で同じようなものを食べ、同じようなものを飲むようになっています。生活習慣が違うので建築はそれぞれのものが見られますが、それでも日本では畳の部屋はどんどん無くなっていて、板張りの床の洋間がほとんどになっています。こうしたグローバル化という政策を推し進める勢力は、巧妙に「民族なんて古めかしいもは脱ぎ去ろ」と奨励しますから、世界は想像以上の速さで同じになってゆくでしよう。ただあまり民族に支えられている文化を擁護すると、すぐに民族主義者呼ばわりされてしまいます。
ここ何回かブログで、伝記、自伝のことを書いたのは、人間の個としての多様性を擁護したかったからです。人間は一人ひとりが違っていいのだと言うことを強調したかったのです。それを一つのパターンに当てはめて整理してしまうというのは退屈な作業だし、それ以上にとても危険だと考えたのです。
同様のことは民族というものにも当てはまります。民族なんてそもそも幼稚な原始的な存在形態なのだから今となっては幻想に過ぎないと考える人たちがいます。また近代化の中でいち早くそれを克服して世界共通という人類的な尺度を作るほうがいいという人たちもいます。そこのところはもう一度考えるべきなのではないかと思っています。みんな同じという考え方には落とし穴があるような気がしてならないのです。食に限って言えば、世界中をファーストフードが駆け回っています。世界中のみんなが同じ食べ物で、同じ味を食べるようになってしまうというのは、思考にまで影響があるものかもしれないと思うのです。
多様性を守りたいのです。多様性を可能にしているのは、他でもない他を認めるということです。これは人間としてとても繊細な仕事です。文化の根幹にあるものです。違うものをそのままでよしとする訳ですから寛容ということです。
しかしこの寛容を逆手にとると、同じである人たちだけに対しては寛容ということにもなってしまいます。みんな同じということが権力と結びつくと、即全体主義です。もちろん政治的にはその方が合理的で、効率がいいのでしょうが、それが支配した時は過去の歴史を見ても、現代の状況を見ても悲惨でしかなかったのです。