ポエジー
ポエジーという言葉の意味は凝縮するということです。ドイツ語の詩も同じで凝縮を意味しています。
散漫とした想いを固めてゆくことです。そもそも想いというのは重いので、心の中で沈んでゆくものですが、そこからさらに凝縮したものがポエジー、つまり詩というわけです。というわけで、詩というのはなるほど読み応えがあるわけです。散文は散漫としているところが取り柄ですが、間違うとぼやけてしまうのですが、ポエジーというのは実はしっかり安定しているものなのです。
散文詩というジャンルがあります。散文でポエジーを綴ろうというわけですから、相当文章力がないと書けないものだと想像します。ドイツ文学の中で言うとノヴァーリスがこの分野を意識していたように見受けられます。
散文とポエジーを綴る文章との対立があるから散文詩などと考え付くのでしょうが、日本語のようにそもそも散文といえどもポエジーをたくさん含んでいないと文章としてはつまらないスカスカなものと受け入れられてしまう世界では、殊更散文詩などと言う必要がないため、この分野は分野として独立したものにはならないのです。日本語は散文とポエジーの間にあると言って良いので、殊更に散文詩という言い方が必要ないのかもしれません。
詩の言葉をここでは、潤いのある言葉としてみたいのです。しっとりした言葉ということです。その反対に日本語の中で一番渇いた言葉、渇き切った言葉は何かと言うと、法律の言葉です。六法全書だと思っています。確かに六法全書は日本語で書かれていますから、日本語で説明された法律です。しかし日本人の頭脳で六法全書が書かれたかというと、日本以外の頭脳の力を借りて作られたものなのです。「ドイツ人の頭脳無くして日本の六法全書はない」と言われる所以です。
法律用語にはあまり縁がない生活をしていますが、時々法律用語に付き合わされることもあります。そんな時毎回、「これ日本語でいうとどういう意味ですか」と聞きたくなるような文章です。この言葉の中に毎日いたら人間が変わってしまうと思えるほど乾燥し切った異質な文章です。感情というものを挟まない文章ですから、私のような人間には「わかった」と言える瞬間が持てないのです。何度読んでも堂々巡りで、どこにも辿り着かない文章です。
ドイツというのは法律用語で生きているようなところがあります。
例えばアパートを借りているとして、貸主と店子の間てややこしいことが起こった時、二人の間で口論になることはないのです。そこに必ず弁護士が介入してくるのです。したがって喧嘩は弁護士を通してするということになりますから、弁護士さんが使う言葉には感情が入り込まないのがベストということになり、法律用語も自ずと感情の混ざらない言葉ということになるのです。
因みに、私はこういう国で四十七年生きてきましたので、実は結構感情抜きの言葉も操れるのです。それをあまり長く使うと中枢神経が悲鳴をあげるのでやりませんが、日本人には有り難くない言葉です。しかしそれがなんと六法全書に生きているのです。
おせっかいがましいですが、ドイツの将来の課題は、もちろん日本の法律用語もですが、六法全書からボエジーへということかもしれません。感情の通った言葉ということなのかもしれません。知的に凝縮したことはではなく、感情的に凝縮した言葉ということなのかもしれません。