情報の渦のなかで
ものを作りすぎた社会から生まれた弊害が、ゴミという一言に言い尽くされるように、大量の情報の量も行場に困っているのではないかと思ってしまいます。そろそろ行場を失った情報はゴミと同じような扱いを受けることになるかも知れません。
ところが情報のゴミの捨て場ですが、どこに捨てられることになるのかということは一度考えていいことだと思います。
産業廃棄物でもなく、粗大ゴミでもない情報のゴミの捨て場は、情報が物ではないため消えてしまうので、受け取った人の心の中に溜まるしかない様な気がします。それを廃棄物といえば、そうした廃棄物はどのように処理されるのかを考えないと心の中はゴミだらけになってしまいます。
話が少し飛びますが、治療をお仕事にする人たちがよく言われるのが、油断すると患者さんの病を受け取ってしまうと言うことです。その結果病気になってしまうことがよくあります。その時、受け取った病を体から抜くことができることが必要ということになるのですが、今の情報というのはそういうものに近いような性格の物ような気がします。
どんな情報と言えどもそれは真実ではないということを弁えて、そうした情報に接していないと、情報を間に受けて、悪く言うと洗脳されてしまいます。それはもう病気の始まりです。今は情報という病に多くの人がかかっているのだと思うのですがどうでしょう。しかしこの情報の渦から逃れることは容易ではありません。意図的にその渦から外れる時間を持って、心を清めることで健康を保てるかも知れません。メンテナンスとしては、ほとんど無意味と思われることにしばらく没頭することです。あるいは意図的に情報に身を晒して、飽きるほど情報を浴びることです。飽きるという体験は不思議なもので、飽きた時に何かの手がかりを得ていることがあるのです。飽和状態のようなものです。そこまで行った時に、情報に振り回されなくなることもあるのです。