グルメ的センスだけでなく

2024年3月5日

私は料理が好きでよく料理しますが、その延長にレストランを開いてみようなどという気持ちはありません。私の作るものには商品的な価値がないことはわかりきっているし、そこまで料理に打ち込める力がないと言うことを感じているからだと思います。料理に見栄も張ったりもないと言うことでしょうか。せいぜい家族で楽しめる様なものが限界で、それを超えて、見ず知らずの人におすすめできる様な料理ではないと言うことです。

世の中の料理を見ているとそこにはやっと商品価値に達した料理もあれば、商品価値を遥かに超えて、希少価値にまで上り詰めたものまで多種多様です。それを評価する組織もあって、世の中はそうしたグルメの世界を一喜一憂しています。

Washoku、日本料理が世界遺産に登録されたときに、日本料理とは言っても何が日本料理というのかがよくわからないのが実感としてありました。伝統的な料理のほかに、料理屋さんにゆくとずいぶん創作料理と呼んでいいものが出てきたり、料理人さん独自のアイデアから生まれたものに目を見張る訳です。奇抜で意表をつかれたものなどは、美味しいと言うより綺麗で珍しく、正直どう食べていいのかがわからないものまであります。そう言った物全部を含めて、washoku、日本料理なのでしょうが、いまだ漫然としていて、はっきりしません。

しかしこうした姿が、料理がある意味では芸術であるという証なのたとも言えます。小説にしろ、現代詩にしろ、伝統的なものにこだわっているわけではなく、創作の連続です。それが楽しみでもあるので、料理もその様に見ていいのだと思います。

その様に変化する中で、日本的な味のエッセンスは普遍なのかもしれないと考えることもあります。日本のフレンチは日本的フランス料理です。フランス人もびっくりするくらい繊細なものもあります。一方、フランス料理の伝統の中で作られるフランス料理は、現地で食べてみると、あるときは野生味あふれるものがあったりして、かえって日本の精細すぎる味付けからは作り出せない大ミックなものもありますから、楽しみ方が色々あって料理の世界というもは楽しい世界です。

私はどちらかというと野蛮性の強いドイツの味覚の中で生活していますから、日本の繊細さに目を白黒させたりしていて、繊細さが時には神経質な感じで伝わってくることもあります。繊細さと神経質さは本当は別のものだと思っています。

今回も色々なものを日本滞在の中で食べました。どれも美味しいし懐かしいしと楽しい味覚の世界を旅したのですが、大胆さと、野生味はもっとあっていい様な気がしています。美味しいと言うところでまとめないでいいのにと思ってしまうのです。

文学のことには少し触れましたが、音楽も同じで、間違うことなくきっちりと上手にまとめられた演奏は確かにいい演奏なのでしょうが、どこかで力を抜いている演奏の方が、聞いていて疲れないと言うのも事実です。私などは間違ってもいいのだと思って演奏しています。

きちっとしてなければいけない、ここがきっと日本人らしさでもあるのでしょうが・・。

 

 

 

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