サハラ砂漠とシューベルトの未完成交響曲
友人の一人に、三年に一度はサハラ砂漠に出かけるのがいます。
彼に「砂漠の何がそんなにお前を惹きつけるのか」と聞いたら、「塵一つない世界だ。驚くほど純粋な自然だ」と言います。
そしてお気に入りのサハラ砂漠のことを少し話してくれました。
サハラの砂は砂粒などではなく、はるかに細かくうどん粉みたいで、一度嵐になればそれはただ脅威と呼ぶしかないものに変わってしまうほどのものなのだそうで、特にうどん粉の砂はどんな隙間からも人間生活に忍び込んで来るので、嵐の後は車の中は粉の砂だらけになってしまうらしいのです。しかしラクダの目は瞼を閉じると嵐の時にも砂は入ってこないというので、自然は自然をよく知っていると言います。そして嵐が過ぎれば再び塵一つない純粋な自然が目の前にある。そんな自然の姿から彼は生きる力を貰うのだと言うのです。
話を聞いていて目の前に初めて壮大な砂漠が純粋な自然として広がったのでした。そしてこの話を聞いたときに、シューベルトの音楽を思い浮かべていました。「未完成交響曲」が頭の中に響き渡っていたのです。
友人から聞いた「砂漠は塵一つない純粋な自然」という言葉はショックでした。それまで私が抱いていた砂漠のイメージとはかけ離れていたからです。なぜシューベルトの未完成交響曲が重なってきたのかは、私自身にとっても正直唐突でした。今思うと「純粋な自然」というイメージだったようです。普通シューベルトの音楽からイメージする自然は砂漠ではなくもっと緑のあるオーストリアの自然だと思うのですが、未完成交響曲だけは違って緑豊かな自然ではないのです。それがこの曲を聞く時いつも不思議でした。綺麗なヨーロッパの自然ではなく、もっと純粋な自然、ある意味過酷な自然だったのです。友人の話の中に見たサハラ砂漠のような自然だったのです。
未完成交響曲は人間の心の窓からそっと忍び込んで、心を満たしてしまう不思議な音楽です。