生きた音と死んだ音
私たちは一日中音を聴いています。わたしたちを取り囲んでいる音が耳から入ってきているのです。目は閉じれば見えなくなりますが、音は耳栓をしても入ってきます。よほど精巧にできたヘッドホーンのようなものに頼るしかないのです。
私たちはその音を雑音と呼んでいるのです。
雑音というとガサツでうるさい音というイメージがあります。確かに洗練された音楽的な音と比べると粗末な貧弱な音と言っていいと思います。
しかし雑音が実は「生の音」なのです。では音楽的な洗練された繊細な音は何と呼んだら良いのでしょうか。もちろん「死んだ音」です。
この分け方は多くの人にとってショックなのではないかと想像します。
日本は島国です。四方が海に囲まれているので、私たちはさまざまな魚を取り、それを食しています。それらを生で食べると聞くと、外国の人は呆れてしまい、野蛮人扱いします。しかし取ってきた状態のまま頬張るわけではなく、刺身の場合でも包丁でさばいて食べやすい状態にまでして初めて口にします。さらものによっては火で炙ったり、煮たりと調理して食べます。刺身にしろ調理された魚にしろ、食べられる状態にされたところで「死んだ魚」なのです。取り立ての生きのいい魚にしても、「死んだ魚」なのです。
海や川で取れたままの生の状態の魚と私たちの周囲にある雑音はよく似ています。私たちは雑音からなる音の集団をそのまま音楽とは理解していません。音楽というのは楽器で演奏された音が必要です。舞台の上で大きなハンマーでグランドピアノを叩き壊すのが現代音楽と呼ばれるジャンルでは行われていますが、それは雑音を舞台に載せただけで、音楽作品とは言えないのです。それは雑音は音楽ではないからです。
魚を捌くと魚は死にます。私たちは生きのいい刺身を食べたとしてもそれは「死んだ魚」です。音も雑音から気持ちよく聞ける音にしなければなりません。そのために楽器というものが作られました。楽器を通して音は死ぬのです。私たちは音楽的な音を聴いて音楽を感じ感動するのですが、「死んだ音」を聴いているには変わりないのです。
音楽的な音を死んだ音とするのは多くの反対が押し寄せてきそうな気がします。楽器が奏でる音こそが生きた音で、道路で工事現場で聞けるのは雑音で死んだ音だと言いたいのだと思います。気持ちとしてはわかるのですが、音は楽器を通して一度死ぬから私たちの中で蘇ることができるのだという考え方はどうでしよう。
魚が一度死んで料理されて初めて美味しいものになるように、音も生きた雑音から一度死ぬことが定められているのです。楽器を通して演奏されることで音は死んだのです。死んだ音になったからそれを人が聴いて音楽体験とすることができるのです。音楽は死から蘇った音で作られているのです。私たちはその死んだ音を蘇らせる能力を持っているのです。抽象化という能力です。それがあるから美しいのです。しかしそれは人工的な美しさです。生のままの音が私たちの中に入ってきてもうるさいだけなのです。生の音、つまり雑音からは音楽ができないのです。抽象化がなされていないからです。生魚をそのまま鍋に入れただけでは食べられないようなものなのです。
ある人がお伊勢参りをしたします。そこでいろいろな旅行体験があって楽しくお参りができて無事に家に帰ってきて、お参りに行かなかった人たちに話をしようとして、いろいろに盛りだくさんに体験したことを事細かに話しても、一緒に行っていない人には何のことだかよくわからないはずです。行ってない人がわかるようにするにはどうしたらいいのでしょうか。つまり一度自分で消化する必要があるのです。つまり食えるような話にするにはどうしたらいいのかということです。ただただ事細かに話しても話は食えない話のままなのです。それを食える話にするためには抽象化という工夫が必要なのです。それは消化というもので体験を粉々噛み砕くのです。話をする人が一度自分の中で粉々に消化しないと他人に話しても食える話にはならないということなのです。