積み木で遊んだ思い出
私の子どもの頃の室内遊びといえばもっぱら積み木でした。当時は今のように多種多様なオモチャはなく、今日では当たり前のLEGOもなかったので、木でてきた正方形と長方形の簡単たんな積み木で家を作ったり、道路を作ったり、車庫を作ったりしたものです。大きなお城も作ったりした覚えがあります。毎日違うものを作っていました。たくさん積み木を持っている子が羨ましかったのを覚えています。
ところが私の孫を見ていると遊び方が違います。一番の違いは積み木で全然遊ばないことです。孫たちはいろいろな種類の室内遊戯が与えられていますから、積み木があっても遊ばないのです。いろいろな積み木を買って与えたのに全然活躍していないのです。寂しい限りです。
これが時代の変化というものだと思えばそれまでなのですが、子どもの遊びというのは、大人にとっての遊び以上の重さを持っているものです。例えば子どもの模倣を例に取っても、模倣は大人のモノマネとは違う次元で捉えられるべきものです。子どもは模倣することで自分が生きている世界を学んでいるのです。
積み木で遊ばないというのは、積み木はこう遊びなさいという指南がないことが原因ではないかと思うことがあります。。しかも形を見ただけではどのようにしたらいいのか検討がつきません。
他の室内遊戯も特に遊びの仕方などが与えらているわけではないのですが、積み木と比べると見ただけでどうしたらいいのかが分かりやすいというか、見てすぐにどうそれと付き合うかが子ども心にもわかるのです。いい意味で具体的なのですが、遊び方としては一つしかないという風にもいえます。積み木にあっては一切具体的な方向は示唆されていませんから、可能性としては無限にあるといえます。しかも完成した形というのも遊んでいる子どもたちが決めればいいので、どんなに見窄らしくてもそれで出来上がりといえばそれでおしまいになります。
英語に「to + 動詞」という形があります。不定詞と呼ばれているものですが、使い方が決まっていなくて幾つかの可能性を持っていて「定まっていない」ということで不定詞なのです。主格になったりします。「to eat」だと「食べということは」と主語として使えます。また目的格になったり補語的に修飾したりと変幻自在で不安定なのです。使えるようになるととても簡略的で便利なものなのですが、英語に対してのセンスが上達しないと上手く使えるようになりません。大事なのはもちろん例題をたくさん覚えることもありますが、何とも上手くいえないですが「センス」です。センスを磨かないと使いこなせないのです。
そうしてみると積み木というのは遊ぶことのセンスが培われものともいえます。想像力というのか工夫ともいえます。そこにあるのはただの木の積み木ですから、センスを磨かないと積み木遊びは上達しないということなのかもしれません。
現代は決まった具体的な目的が子どもの遊びの中にまで浸透しているのかもしれません。