未熟な幼稚性と無邪気な童心
大人らしさと子どもらしさとは水と油のような不思議な関係です。
「幼い」とか、「まだ青二才だ」と言われるのは決して嬉しいことではないですが、無邪気で純粋ですねと言われると嬉しくなってしまいます。天国に近い存在のような気がしてきます。
私たちは成長して大人になるように仕向けられていると言っていいと思います。もちろん教育はしっかりとそこに加担しています。立派な社会人にならないといけないということで教育は行われている面もあるのです。
しかし宗教的には子どもであれ、童心を大切に、無邪気で純粋であれということになっています。大人の社会に汚れれないようにということです。そうしないと天国への道は遠いいということになっています。ところでいち早く大人にしようとしているのは誰なのでしょう。今の社会はこの見えない力に追いまくられているようです。
大人と子ども、大人になると子どものままでいるというのは、大変な駆け引きです。まるで綱引きのようです。軍配はどちらにあげたらいいのでしょうか。
もう一つ別のタイプがあります。学者として専門分野のスペシャリストとして右に出る者がいないほど突出しているのに、幼稚で、行動全般が大人気ないというタイプです。
インファントという名前のついた症状があります。幼稚症とでも訳したらいいのでしょうか。私は一時期色々な方面の学士の方々と頻繁にお付き合いがありました。立派な博士論文を書き上げた専門家の人たちです。しかし付き合っている時にいつも感じていたのは、この人たち何かが育っていないということでした。一番顕著なのが普通でないということで、いわゆる常識というものが全く理解されていないのです。常に周りと摩擦が起きているのになぜ摩擦が生じてしまうのかは全く理解されていなかったようです。ほとんどの原因は実は些細なことだったのですが。
常識を極度にわきまえて生活している人と付き合うのも疲れるものです。決して間違いを犯してはいけないのです。適度に度を外してくれないと、窮屈になって呼吸ができなくなってしまいます。こうした常識派も偏った人たちです。やはり一種のインファントと言えると思います。
どちらも子どもらしさを持ち合わせていない人たちです。同時に大人らしさも持たない人たちです。子どもの時に子どもでいられなかった人たちの末路と言ったらかわいそうですが、実際にはそんな気がします。子どもの時に子どもでいられるというのは最大の贅沢のような気がします。今は子どもの社会の中に大人社会がしっかりと組み込まれているのです。