平均律という大嘘で栄た西洋音楽
先日調律のことを少し書いたのですが、今日は平均律の調律を擁護したいと思っています。それは今日の音楽発展には平均律による調律方法が欠かせなかったからです。バッハのピアノ平均律曲集はピアノの旧約聖書とよ呼ばれているものです。土という根音が決まり、ハ長調という基本が定められ、転調が魔法のように自由になったのです。バッハ以前にもリュートで平均律の曲集を試みられたことがありましたが、この曲集はキーボードが出現するまで待たねばならなかったものなのです。
現代、ピアノが楽器の王様とよ派れる理由は色々あるのでしょうが、平均律を確立できたことと、それによって一つの曲の中で自由自在に転調することができるようになったことでそう呼ばれるのでしょう。
西洋占星術などで有名な十二宮にはそれぞれの調律があてがわれていますから、一オクターブが十二音というのは宇宙の法則に従ったものとも考えられています。宇宙でどのように調律されているのかは解りませんが、地上でそれを実現するためには平均律的調律、嘘の辻褄を合わせた調律方法が欠かせないのです。ただし同時にそれによって音同士の間には不協音が生じてしまいます。これが人間間のコミュニケーションの不和につながるという人もいます。またそこを厳しく純正律派からは批判されこの調律は純正律を正しいものとする人たちからは悪者のようにみられています。今日の音楽の豊穣は悪の華なのです。
現実はオクターブという枠組みを純正で調律することはできないということです。根音を持つオクターブという現代の音楽に欠かせない枠組みを地上で用いる限りオクターブの中は不純なものにならざるを得ないのです。私は宇宙の響きを聞く能力がないのですが、宇宙はどのように解決しているのでしょう。平均律による調律は、地上で許された音楽的な嘘とも言えます。あまりに美しい嘘です。しかしこの嘘がつけることから無数の音楽が作られたことも事実です。十二の調性は宇宙的音楽の映し絵でもあるのです。もし平均律がなければ、転調という音楽的魔法を操り十二の調性のなかを自由に振る舞うことはできなかったのです。そこで作られた正しい音楽はどんなものだったのかを想像すると、退屈な音楽が聞こえてきます。正しいというのは、芸術的に、精神的にみたとき、つまらないくだらないことでもあるのです。
今はピアノが全盛の時代で、平均律がなくてはならないものですが、これからオクターブという枠をどうするのかということが問題視されるようになると、音楽の基本が変わってきます。根音などという考え方はなくなるのかもしれません。転調などという魔法はもう必要なくなってくるのかもしれないのです。その時にピアノがどのようになっているのかは全く想像がつきませんが、オクターブという硬い鳥籠のようなものはなくなって、音たちは鳥籠の外を自由に飛び回るようになるのかもしれません。
音が、鳥籠の中で死ぬことだけはあってはならないことなのです。