人間の角度は360度が理想
人間に角度があるようです。また人間を数字で表すのかと言われてしまいそうですが、知能指数のように試験する人がいてテストをして測るのでもなく、血圧のように計器を使って測るものではないので安心してください。全くの自己申告でいいのです。ということは、他人に知られる必要など全くなく、自分で感じていればいい楽な数字です。
人間の視角のことをいう時に言われるのは、一般的には左右に120度くらいだそうです。上下も大体同じくらいです。運転の時にどのくらい見えているのかのテストがありますが、これとここで取り上げる人間の角度とは少し違います。ちなみに聴覚の場合だと200度ほどに広がるそうです。
視野が広いとか狭いとか言いますが、この場合は視覚的な角度のことではなく、視野ですから、肉体的にではなく意識の広がりということです。馬が半分目隠しをされているのを見たことがあると思うのですが、気が散らないためにされています。目の前のことしか皆ようにされてるのですが、このくらいしか世の中が見えていない人もいて、こういう人を視野の狭い人というのです。その人の人間の角度はせいぜい30度くらいでしょうか。自分が見たいものしか見えていないのですから、もしかするともっと狭いかもしれません。
この人は何も見えていないのだと驚かされるような人に出会うことがあります。この角度は頭の良し悪しに並行しているとは限らないのです。頭のいい人ほど人間の角度は狭いのではないかと私は個人的な経験から思っています。研究者などは馬半目隠しのような状態にいる方が、周囲に惑わされないで研究に集中できるものです。あるいは人間の角度が生まれつき狭い人が研究者に向いているということかもしれません。大学の先生から始まって、学校の先生と呼ばれる人たちも押し並べて角度が狭いようです。研究者ほど極端ではないのでしょうが、「先生と言われるほどのバカじゃなし」ということを昔は言ったものです。先生とか教育という仕事を聖職と崇める一方で、先ほどのような言い方もされていたのです。まだあります。「でもしか先生」です「先生にでもなるか」、と先生になる人もいれば、「先生にしかなれない」と先生になる人もいたのです。先生も人間の角度が狭くてもできる仕事のようです。教育がこんな状況でいいのかと心配になります。
専門職になればなるほど、角度は狭くていいようです。専門の専という時は「もっぱら」ということです。専念するということですから、そのことだけに関わっていればいいということです。文明社会は専門家が排出される社会ということです。人間を機能という視点で捉えると角度が狭くても一向に敵わない、いやむしろ角度かせまい方が向いているのかもしれません。人間が機械化してゆくということでもあるようです。
では角度が広くないとできない仕事はなんなのでしょうか。
農業に関わっている人をかつては「百姓」という言い方をしました。今でも「お百姓さん」と愛情を込めていうこともありますが、その意味するところは、「百種類もやらなければならないことがある」ということです。百という数字は形だけのもので実際に数えて得た数字ではありません。いろいろなことに気配りができていないとできないし仕事ということです。植物のこと、土のことなど知らなければならないし、工具や機械のことも知らなければならないし、天気のことにも通じていないと困ることがあるものです。つまり私たちが生きる上で関わってくるほとんどのことに通じていないとダメだということですから、「お百姓さん」なので、専門家の真反対にいる人たちです。
親になることで人間の角度は嫌が上でも角度が広げられるようです。独身の時には自分のことにだけ関わっていればよかったのですが、子どもができると24時間体制が強いられます。そうなると自ずと人間の角度が広げられていまいます。ほとんど360度に向かって全開しているようです。そうでないと親が務まらないのです。
人間性、人間の柔軟度はこの角度が示す数値に並行しているようです。地に足がついているという言い方も人間の角度の別の言い方かもしれません。