自我が目覚めるとき
自我は西洋の精神世界を語る時の中心にあるもので、哲学はもちろん、心理学にしろ社会学にしろ、そこを通ることなく何も語れないほどのものと言えるのに、正直うまく語れない秘密の場所のことを言っているのだと思っています。秘密ですから何人(なんびと)も入れないところなのです。ですから自我とはいっているもののエゴのことだったりします。
西洋の精神性で一番問題なのは自我を自己主張の道具に見立てていることです。日本人の立場からすると、なんとみっともないことが起こっているのかと哀れんでしまうことなのですが、西洋のこの悪癖は深く染み付いていて、当たり前すぎて拭いきれないもののようです。
精神文化がこの自己主張一色に塗りたくられてしまうのですから、芸術もその支配下に置かれてしまいます。もちろん宗教もです。ある意味では危険極まりないとも言えるのです。自己主張と同じくらい困ったものに、自分を守ろうとするバリケードの強さがあります。これもしっかりと張りますから、自分という要塞は崩れる気配がないのです。
しかしなぜここまで自分というものにこだわらなければならないのかと日本人の私は考えてしまいます。
時間に遅れてくると、あらゆる言い訳をして自分が悪かったのではないという方に話を持ってゆきます。そこに注がれるエネルギーというのは恐ろしいほどなのですが、そのエネルギーの一部でも他のことに使えばもっと有効的なことが社会的に行われるのではないのかとは考えるのです。
自我というのは自分と他人とが共に働いている場所のこととも言えるし、シュタイナーがいうように私とあなたとの間にあるものなので、自分にこだわっている限り自我には到達できないということになります。他人をリスペクトできなければ自我には到達できないということなのです。
例えば使った部屋を後にするとき、「立つ鳥あとを濁さず」という具合に、次に使う人のことを慮って片付けて後にするものです。ただ次に来る人が必ずしも他人とは限らなくて、もしかすると自分がまだ使うかもしれないのですが、その時の次の人、つまり他人のためという他人が、自分だったりもするんです。自分と他人というのはそんな風なもので、広い目で見るとはっきり区別できるものではないという一例です。
自己正当化という悪い癖も見直さなければならないものです。裁判などのようにどちらが正しいのかという争いの時は正しさをお互いに主張できないければならないのでしょうが、日常生活で四六時中自己正当化がぶつかり合っていては何もまとまらなくなってしまいます。ディスカッションが大好きですが、言葉の争いにすぎないもので、発展的ではないのです。直を語る時には相手の立場や気持ちを斟酌するという余裕が問われているのです。相手が見えていない限り自我への道は遠いい様です。
誰かがやらなければならなかったことをある人がやってくれた時には、「私がやろうとしていたのに」ととても残念そうに言います。実はこれは嘘で、その場をこういう言い方で逃れるテクニックにすぎないのです。してはならないことをしてしまった時には、「そんなつもりはなかったの」と大声を出しますが、謝ることはしないのです。謝ったら負けだと信じているからです。
これらは癖なんです。特に考えることをしないでもいつもちゃんとそうなるのです。それ以外は起こりえないのです。思考の欠如ということではなく、習慣の問題なのです。こんな状態ではいつまで経っても自我にたどり着くことはないようです。癖なので、どうしてもそうなってしまうため、修正はほとんどの場合ききません。頭でそれは良くないとわかっても、癖ですからついそうなってしまうのです。
西洋が西洋でなくなる時がいつか来るのだろうかと絶望的になることが多いのですが、この癖は古い文化の名残だとすれば、これからの文化のあり方の流れに沿ってゆけば、改良の余地が見えてくるのかもしれません。
1日も早くそんな日が来てくれることを祈っているのですが、どこから叩き崩せばいいのか、絶望的になることもあります。西洋に、自分で自分を変えられる日がいつの日か来るのでしようか。来てほしいし、こなければ将来は相当きついものになると想像します。
この自我妄想は一度は壊れないとダメなもののように感じています。死して生まれよ、でしょうか。