機械づくり
人間はいつまで機械づくりにこだわり続けるのだろう。機械のほうが優秀だとわかるときに終わりを迎えるのか、やっぱり人間のほうが優秀だと言って終わりにするのか、どっちでもいいのですが、どうやらもうしばらくは続きそうな感じです。
しかしなぜこんなに機械にこだわるのかやっぱり気になります。
他にもこんなにこだわっているものがあるのかと探してみると、人間は法律とかルールを作るのも大好きなようです。実際、法律やルールがない社会なんて考えられません。他人を支配するためのものに法律が使われることもあります。とても怖いものです。自分の権利を護るために法律で固めることもします。人権のための法律が権力と結びつくとパワハラ以外の何物でもなくなってしまいます。歴史の不幸はここに多くが見られるようです。
機械も法律も単なる道具である線を越える時が来てしまう様な気がします。すでに法律の精神が権力に牛耳られてしまっている様な気がします。未来はなんだか不吉な予感に満ちていますが、明るい未来を信じたいものです。
機械づくりが無事終わった暁には、人間はどんなことをしているのでしょうか。機械づくりから、人間味のある手工業のような、あるいは手作りの物づくりに戻れるのでしょうか。もちろん簡単に移行するものではないでしょう。しかもそこには新しい価値が見出せれるという条件がついてきます。
ということは、今一番しなければならないのは、新しい価値を見つけることです。出世、お金というものに突き動かされた社会が長く続いています。もうそろそろ違う価値が生れてもいい頃のような気がするのです。気をつけないとただヴォキャブラリーが変わっただけということにもなりかねません。ヴォキャブラリーが変わっただけで根底の価値観が全く変わっていないものが横行します。「今の若いものは」、という言い草はだめですが、若いからと言って決して新しくないということも心得ておく必要があります。目新しそうなところに惑わされてしまうのです。ここが一番難しいところです。そうしないとシュタイナーが言う、唯物的精神主義なんて落とし穴に落ちてしまいかねません。
価値観の変換のことをこれからも考えてゆきたいものです。