草書と行書と楷書
書道ではこの三段階で書体を整理しているようです。
私は書を嗜んだことがないので、詳しい法則は知りませんが、うまくできているものだと感心するのです。
これを言葉に応用してみると、楷書を論文に書くような形式通りの言葉遣いとすると、行書は小説、エッセイといった散文でしょうか。では草書にあたるものは何かということですが、詩の言葉に決まっています。和歌や俳句です。近代詩をどこに入れるかは難しいです。私には散文のような詩が多いので、詩の言葉と言い切れないものを感じることがあります。でも中原中也、萩原朔太郎、木下杢太郎、若山牧水などは香り高い日本語で近代詩を作り上げたので、その業績を讃えたいのですが、やはり俳句に極まった草書的なものと比べると、説明にはしりすぎるので、散文的です。ということは行書なのでしょうか。
私の祖父は行書の名手でした。大叔父は達筆で草書を得意としていました。子どもの頃は全く読めませんでした。今もきっと読めないと思います。直筆で手紙をもらっていたら返事に困ったと思います。読めないのですが、達筆と言われる理由は字の流れから解ります。「行書は練習すれば書けるようになるよ」と祖父はよく言っていました。でも三郎さん(大叔父)の字はすごいものだよ、到底真似はできないねということでした。
私には祖父の行書の流れるような動きも綺麗すぎました。草書になると曲者という感じで彼岸の字でした。
学術的な論文の文章というのは本当に硬い文章です。しかも言葉の使い方に暗黙の規則のようなものがあるようで、日常的な表現が散らばっていたりすると。論文としては認めがたのだそうです。私はこのような文章は何度読んでも理解できないのです。六法全書の文章も同じです。法律というのは固いものなのでしょうか。フランスの作家、「ああ無情」の作者ピクトル・ユーゴーがナポレオン法典を下敷きに小説を書いたということは有名ですが、フランス文学の乾いた文章は、散文でも楷書に近い行書的散文のようです。今でも理想的フランス語ということが言われます。「最後の授業」の作者アルフォンス・ドーテの文章お手本なのだそうです。フランス文学は行書の中の楷書に近い文章で綴ります。英語は小説を書くのに向いていると思います。表現が多彩です。柔軟性もあります。日本語は言葉としては、俳句のようなものを成立させてしまうのですから異端的な言葉だと思います。この短さの中で、何かでありうるということ自体、奇跡に近いものです。
俳句の先に何があるのだろうと考えるのですが、言葉は終わって、おそらく沈黙でしょう。もう言葉では言い切れなくなってしまうからです。感動しすぎた時には言葉がなくなってしまうようなものです。
ドイツ語の諺に「沈黙は金なり」というのがあります。金はゴールドです。しゃべているうちは銀です。黙り始めると金に変容するのです。老子の「知るものは語らず」も同じでしょう。
今の情報社会、金を探すのがむずしいようです。みんな猛烈におしゃべりです。これでもかと言わんばかりに知識をひけ散らかしています。
と言いつつ私も金には程遠いいことを感じています。