指揮者に思うこと

2024年6月18日

指揮者によってオーケストラの作品はずいぶん変わります。特に著しいのはテンポですが、それ以外にも微妙な違いがあって、最近はとても興味深く感じています。良い良くないというのはひとまず置いて、指揮者によって何が変わるのでしょうか。そして指揮者という存在は何なのでしょうか。

若い頃は指揮者なんて無用の長物だと豪語していましたが、今は少し穏やかになって、指揮者を評価できるようになっています。指揮者とオーケストラの間に起こっていることに、色々な場面で気付かされ興味が出てきたからのようです。壮大なコミニュケーションの課題のような気がします。

音楽は演奏者が仲介するのでしたかがないのですが、オーケストラという集団を率いる指揮者となると、ソロで演奏するのとは違って別の緊張感と孤独感があるはずです。そこで何が起こっているのか、想像を絶するものを感じる一方で、案外私たちの日常でも遭遇することのようでもあります。

 

指揮者はオーケストラの楽団員をどこまでコントロールできるものなのだろうか、とよく考えます。ただこの問いには簡単な答えはないのでしょうが、もちろん独裁者のような強引な指揮者はオーケストラから嫌われているようです。かといって民主的にというのも成立しないもののような気がします。

私の好きな指揮は、指揮者がオーケストラから信頼されていて、指揮者は指揮者で音楽を愛し精通していて、指揮者の個人的な意見でオーケストラを纏めようとしない、音楽の僕として指揮する指揮者です。

その時のオーケストラの響きは広がりがあって聞いていてのびのびします。ところが細かいことを言い自分の考え、スタイルを楽団員に押し付けようとする指揮者のオーケストラからは窮屈な音楽しか聞こえてきません。私の思い込みかもしれませんが、この部分はわかっているつもりです。ただし強い指揮者でも楽団員から絶大の信頼を得ている時などは、それがかえってまとまった力を感じる演奏になったりするのですから、矛盾だらけです。

指揮者には響きを整えようとしているタイプの人と、音楽のエッセンスを引き出そうとする人との二つのパターンがあるように思います。個人的には響きを意識しすぎたり、響きを強調している指揮よりも、キッパリと音楽に向かっている演奏の方が好きで、そういう演奏に接すると指揮者とオーケストラと聞き手である私が一つの音楽を共有できたという感じ、幸せな音楽鑑賞ができます。響きに重きをおく指揮者の指揮は主観が強く、思っ苦しく押しつけられたような後味が残るので苦手です。

指揮者が演奏する音楽を知り尽くしているということは重要な前提で、そこから生まれる確信は楽団員からの信頼を獲得でき音楽を豊かにするために必要で、その力があることでオーケストラを引っ張るように率いるのではなく、楽団員達一人一人に自由に演奏させられるということのようです。これができる指揮者はわずかのように思います。とはいえ、本番にはいつも何かが潜んでいるもので、その時に降りてくる霊感のような直感にも指揮者が開かれていないとマンネリになってしまいダメなもののようで、懐の深い演奏はそのような上質の即興的なところから生まれるようです。それはまたとても勇気のいることだと想像します。

 

 

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