ストイックについて

2024年6月24日

先日指揮者のことに触れた文章を載せましたが、今日はもう少し突っ込んでみたいと思います。

個人的に好きな指揮者をいうとアメリカのクリーブランド交響楽団の育ての親のチェコの人、ジョージ・セル、と、オランダのアムステルダムのコンセルトヘボウ交響楽団の音楽監督をされていたベルンハルト・ハイティンクです。惹かれる理由は何かというと、彼らの持つストイックさです。彼らのストイックから生まれる音楽の深さ、誠実さからは、音楽の向こうが垣間見える様な気がするのです。何度も不思議な体験をしました。

普通ストイックというと禁欲的なということで、内側から湧き出てくる欲望を抑えて生きている苦行僧のような重たいイメージですが、この二人の指揮から生まれる音楽はそんなことはなく、どちらかというとのびのびとしていて、いつまでも聞いていたくなるような軽みも感じます。

普段のストイックとは違って明るいのです。元々ストイックと言うのは禁欲といった、押さえつけるようなこととは関係ないものだと言いたいのです。むしろ誠実なという方がふさわしいと思います。例えば二人の指揮者についていうと、彼らはどちらも音楽の僕(しもべ)たらんとしているのだと思います。ですから精一杯音楽に語らせようと努めます。そしてそれに楽団員がついてゆくのです。指揮棒で楽団員をコントロールして思いのままの音楽にするというのではなく、音楽が鳴りたいように鳴らせるということに尽きるのです。そこからのびのびとしたおおらかな、しかし力強い音楽が生まれるのです。まさに誠実さの賜物です。

こうした音楽からは音楽のエッセンスが聞こえてきます。別の言葉で言うと音楽骨格のようなものです。実はここに先ほどいった「音楽の向こう」というものが潜んでいるのです。ジョージ・セルの指揮するモーツァルトのピアノ協奏曲から何度もモーツァルトが愛した数々の数式がイメージとして聞こえてくるのです。それを音楽鑑賞とは言わないのでしょうが、一度ならず何度も数式との出会いがありました。モーツァルトは子どもの頃、色々な計算を紙に書いたり、壁に書いたりしていたのだそうです。算数っこだったのです。ジョージ・セルはそんなことを音にしようと指揮棒を振っているのではなく、モーツァルトの音楽に近づこうとすると、そういうことになってしまうのです。特に圧巻は彼が無くなる数ヶ月前に録音したシューベルトの未完成交響曲です。楽団員も指揮者の死が近いことを知っていたと言うことで、お互いに最後の演奏を歌い上げようとしている熱を感じます。YouTubeで探すときはSchubert George Szell 1970で検索してみてください。

自分の才能を衒ったりすると音楽はすぐに死んでしまいます。死ぬとはつまらないありきたりのものになってしまうと言うことです。音楽は自己主張のようなものが嫌いで、ストイックに表現されたがっています。誠実とが貫いていれば、そこから華やかさも生まれていいのです。音楽というのは本来静かなものなのです。静寂が音楽の故郷です。音量のことを言っているのではなく「静けさ」のことです。どんなに音が鳴っていても優れた演奏からは「静けさ」が聞こえてくるのです。パフォーマンスを衒った派手な演奏からはこの静けさが聞こえてこないものです。

この静けさを引き出せるのがストイックの力です。ストイックを禁欲的とすると、芸術としての音楽は煮え切らないつまらないものになってしまうでしょう。ストイックだから楽しんではいけないという狭いものではないのです。ものの本質に迫れることが大事なのです。そのために努力するのです。それ以外のことは周囲が決めているだけのことです。

ストイックを装っているのは大抵パフォーマンスです。

 

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