豪華のそだたない日本

2024年6月27日

富裕層と呼ばれている超お金持ちがどんな人たちなのかちょっとだけ垣間見た気がした時の話しです。

贅沢を楽しんでいる人たちと言いたいところですが、その規模が想像を絶していて、滑稽に感じてしまうほどでした。特に印象的だったのはその人たちが日本について語っているのを聞いた時でした。彼らの日本への評価は意外なもので「ダサい、つまらない国」でした。旅行しても楽しくもなんともないらしいのです。彼らは別の価値観で生きているからです。私の周囲のドイツ人たちは決まって、一度は日本に行ってみたいというのですから正反対です。

一番高いホテルのスイーツは一度は泊まってみたい気もしますが、なんのためにと考えてしまうほどのお値段なのでやっていません。そんなお値段でも彼らには痛くも痒くもない額なのです。もっともっと豪華で居心地がいいお膳立てが彼らのお目当てのようなのです。私からすればけばけばした、いたせりつくせりの過剰サービスがして欲しいのです結局はどうってことはなく、特別な人間として扱ってほしいのです。

彼らには支出の金額など眼中にないのです。高額な支出の何倍、何十倍もの収入があるのですから、いくら一晩で使ったかが彼らのステータスで、高ければ高いほど、多ければ多いほど自慢することが増えると言うだけの話しなのです。

彼らにとって旅行は、まずはホテルは超豪華でなけば意味がないのです。最高の見晴らしで、高級感のある家具、調度品が取り揃えられている豪華スイーツ、お食事は三つ星のついたレストランでする。それこそが望ましい旅行なのです。いわゆるきんきらな華麗なる世界の中で満たされている様子がイメージできます。贅沢が生き甲斐ということです。自分を満足させるための支出が喜びなので、それをさせてくれない、地味な、わびさびを大切にする質素を自慢するような日本は野暮ったく、貧乏くさくうつるのでしょう。わびさびの極致は土壁で塗られただけの古ぼけた小さな茶室ですから、比べたくても比べようがありません。交わることのない二つの世界だと言うことです。

 

 

プレゼンテーションという言うのは、皮肉っぽく言えば自分を高く売るためのものと言えます。中には地味な研究成果を報告する貴重なプレゼンテーションのもありますが、今の経済を主軸にした社会では、表品価値をアヒールするというのが大きな目的です。いかに自分を高く売るかということですが、私が色々と経験したところでは、日本人が苦手にしているものの一つがこのプレゼンテーションです。

でいのいい自惚れ行為でもあるからだと思います。どこまで本当かわからないようなプレゼンテーションも多いてすし、はっきり嘘だとわかるような低級なものも結構あります。見本市などではそのような派手な自己のアピール合戦ですから、聞いていて疲れるだけです。

自国をプロパガンダで固めている国などはそうのような嘘は言いたい放題なのでしょう。そうしたハッタリが半ば許される環境でプレゼンテーションは生き生きとしてきます。聞いていて恥ずかしくなるほどですが本人たちは嬉々としてやっているのですから、正直呆れてしまいます。なぜ日本人はそれが苦手なのか考えてみるのも一興です。自己反省、自己分析というのも日本人があまり得意ではないものです。

 

犯罪心理学をやっている友人が、興味深いことを話してくれました。してしまった行為に対して刑が下り、刑務所に入った時に、彼はカウンセリングのような形で、その収容者に犯したことについて色々と聞くことを仕事にしていたということなのですが、彼が外国で勉強した時に、自分を振り返るという作業が、収容されている犯罪者たちの更生に役立つと習って、日本に帰ってきて実践している中で、「日本人には外国人に良しとされているものがそのまま役には立たない」ということに気づいたのだそうです。その一つが犯罪者たちに自分がなぜそんなことをしたのか、ということを問い詰めて、反省の機会を作ろうとする行為だというのです。「日本人にはこれをやりすぎるとかえって本人を苦しめることになってしまう」と感じたのだそうです。

アメリカやヨーロッパでは、言葉にして自分を整理するのが日常的に習慣になっていますから、当時留学中は実際にそれは更生に役に立っているようにも感じたのらしいのですが、日本人の場合はかえって逆効果があることを日本で改めて感じたのだそうです。

あまりペラペラ喋るのは良くないということのようです。アメリカや、ヨーロッパでは自分を説明するのが大好きです。「なぜならば」ということを説明してしまうのです。説明して納得しているのてず。これには初めてドイツで生活し始めた時にびっくりしたものです。本当かどうかは判断しきれないものですが、話しを聞いていて感じるのは「自己安堵にかけているような感じ」です。もしかするとこれが西洋がご自慢の「自我」なのかと思った時には「自我」は日本人には無理だと思ったほどでした。思い込みでしかないのではないか、そんな気がしたのです。自分って、言葉で説明したら、自分からどんどん遠ざかってゆくような気がします。言葉にすればするほど遠くに行ってしまうようです。

 

話を超贅沢な人たちに戻すと、全てではないのでしょうが、「足を知る」という歯車がかけているという感じです。贅沢のような欲望は、「もっともっと」がその本質です。どんどんエスカレートしゆくものなのです。プレゼンも見本市、メッセなどではどんどんエスカレートしています。嘘も方便という枠をはるかに超えていて、聞いてい恥ずかしくなるようなものばかりです。どこかでその悪き風習を止めたいものだと思うのですが、どこから手をつけたらいいのかわかりません。

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