久し振りに音楽に出会えました
一昨日YouTubeに見知らぬピアニストの名前を見かけ開いて聞いてみました。
ロシアのピアニストでIgor Kotlyarevsky、イゴール・コトリャフスキーという、聞いたことのない名前でしたが、ロシアのピアニストは概ねハズレがないので実際の演奏が楽しみでした。
この動画はモスクワのテレビ局が放映したものをYouTubeにアップしたもので、演奏会はモスクワ音楽大学の小ホールで今年の5月に行われています。
演奏が始まってすぐに今まで聴いたことのないピアノの音に引き込まれてしまいました。聞く耳を疑ってしまうほどピュアな純粋な演奏だったのです。
演奏会のプログラムは、スカルラッティー、モーツァルト、シューマン、リスト、アンコールにスクルリャービン、ショパン、シューマンが連ねていました。
最初はスカルラッティーでした。よく演奏されるK466をこんなふうに聞いたことが今までなかったので、馴染みのあるメロディーだと思いつつ、本当にスカルラッティーかどうかを疑ってしまうほどです。
コトリャフスキー氏は体を微動だにせず、表情もほとんど変えずに演奏しています。指と鍵盤との出会いに全力で集中しているようです。俗な言い方をすれば丁寧な弾き方です。
何が私を引き付け、私を引き込んでゆくのかというと、彼の存在、生き様と音とが見事に出会っているところです。全く見事なのです。音を紡ぐようにピアノを弾いています。音楽の流れは静寂そのものです。こんなに静まり返った演奏は本当に久し振りだったので、初めの驚きはすぐに喜びに変わっていました。
久し振りにピアノを満喫している自分がいました。満たされて聞いているのです。こんな風に聞きたかったんだと独り言を言っていたかもしれません。それほど彼が紡ぎ出す音は私の心をとらえたのです。乾いた喉が潤わされるような感じでした。
一人の人間と音楽となった音が出会っている。驚くべき静けさの中でです。とても神聖なものを感じました。音楽を聞き貪っていた自分に知らず知らずについてしまっていた垢のようなものが、この演奏で清められてゆくのです。
音楽は現代ではビジネスとして欠かせないものです。数多の音楽会、若い音楽家の登竜門としてのコンテスト、盛大になっている音楽祭、音楽フェスティバル、音楽は産業的にみて巨大なお金を動かすものとして使われています。音楽は娯楽として書くつ訳していて素人バンドを組んだりして楽しんでいますし、医療としても、メディテーションとしても使われています。
そうした道具として使われている音楽から音楽が聞こえなくなることがあります。日本から帰ってきて、飛行機の中で体調を崩してその後しばらく遺症のようなものの中にいて、音楽のそうした道具として使われている姿に辟易していたのです。二月の京田辺の講演会の時に弾いたのを最後に、ドイツに帰ってからは一度もライアーに触れていませんでした。音楽が聞こえてこなかったのです。音楽がわからなくなっていのだです。
そんな中でのコトリャフスキーの演奏との出会いでした。乾いた砂に水が吸い込まれるように彼の演奏は私を潤します。真剣に聞き入ってしまいました。そしてなんと、またライやーを弾きたくなっていた自分がいたのです。久しぶりの感触に我ながら嬉しくなりました。とは言ってもまだ実際に弾いてはいません。ピアノとライアーの音質の違いもあるからです。
彼は音楽をフレーズとして弾くというのではなく、一音一音と対話しているようでした。どの演奏家も同じ楽譜を用いて弾いているのですが、みんな違う演奏になります。これが音楽が音楽である所以だと思っていますし、醍醐味でもあります。それでいいのですが、質の違いはどうしてもあります。質の違いを作っているのは、演奏がどこまで自分の思い込みから解放されているかだと思っています。音楽をも超え純粋に音に出会うためにはどんな能力が必要なのかと自問していました。演奏のための技術的な訓練から得られるものではないはずです。残念ながら天性であるのでしょうが、人間としての人格を作ることから生まれるものでもあるような気がします。一音一音を蔑ろにしない精神性です。全てのことに真摯に向かい合う姿勢です。
モーツァルトの演奏も初めて聞くモーツァルトでした。一番驚いたのはリストのピアノソナタです。今までも二度ほどコンサートで聞いたことがあって、その時の印象からすると、「なんともやかましい音楽」だったのに、彼の演奏は自己主張を抑えた静寂さに満ちているのです。静かなのに豊かな緊張感が演奏にはみなぎっているのです。決して情緒に流されることはないのです。私も演奏家の端くれとしていうと、この二つを両立させるのはとても難しいことです。
ということで、多くの人に彼の演奏を聴いていただきたいと思います。きっと人生観が変わるほどの体験になると思います。