霊とは零、つまりゼロのことである

2024年9月5日

霊のことを少し考えてみたいと思います。

霊とは、表題にも書いたようにゼロのことではないかと思っています。

物質の世界から見たら何もないと言うことです。

子どもの頃読んで今でも心に残っている素晴らしい本がひとつあります。ファラデーと言うノーベル物理学賞をもらった著名な物理学者が、あるクリスマスの時期に小学校の子どもたちにお話をしてほしいと頼まれ、その話をまとめて生まれた本です。

ろうそくの不思議について、子どもにもよくわかるように話されているものですが、大人が読んでも感動する素晴らしい内容が込められています。その中で当時とても印象深かかった一節が、ろうそくの光は煤があって、その煤に反射して明るくなっているということでした。もし炎に煤のような不純物がなく、純粋なものだったら、炎は目に見えないということでした。実際にガスバーナーなどで調べてみると、温度が高く燃えているときのガスバーナーの炎は青白く、ほとんど見ることができない程のものです。純粋になればなるほど、見えなくなってしまうと言う不思議に感動していました。ろうそくの燃えている炎の中を、火傷しない程度の速さで指をくぐらせると、指が煤だらけになります。この煤がろうそくの炎を明るくしているたて役者だったのです。

霊というのも物質からすれば、純粋そのものですから、物質の世界からは全く見えないと言うことになるのです。私たちが霊だと言って論議しているものは、結局は物質的なものが霊を反射しているだけなのだと思います。

私の住んでいるドイツは、民族的にとても理屈っぽいところがあり、ドイツの有名な哲学者カントは批判精神に則って優れた哲学者を著しました。何でも、批判的精神で物事を見ようとするわけですが、霊はその批判対象にはならないような気がするのです。まるで糠に釘のような、手ごたえのないことが起こってしまうのです。神学をいくら勉強しても神様は見えてきませんとしたいなぁが言うのと共通しているような気がします。霊に批判の目を向けても、霊の方からは何も返ってこないのです。批判の対象は、あくまでも物質世界の中での話です。

ドイツ語では霊のことをガイストといいます。実はこのガイストという言葉は、お酒のアルコールと同じ言葉で、アルコール100%になったら、もうお酒と言うものではなくなってしまいます。そんなものを飲んだら、人間の喉、食堂、胃袋は立ち所に燃え上がってしまうのではないでしょうか。という事は、仮に100% の霊が地上に降りてきたら、瞬時に燃え尽きるか、揮発して消えてしまうような気がします。そういう意味で言うと、霊はとても手強いものです。

しかし願わくば、この手ごたえのない霊とどこかで接点を持ちたいと思うわけですが、一体どうしたらそれが実現するのでしょう。ここで考えるのは、倫理と言う人間の持つ能力ですが、これは相当力になるのではないかと言うことです。倫理と言うともすつての修身のような堅苦しいものを想像しますが、正しいこと、正義感といったものを押し付けてくるものではなく、本来は柔軟なもので、私たちを縛るようなものでは無いのです。人間の中にそなわっている自発性からのもののような気がします。物質界の常識に囚われている限り、倫理と言うものにも到達することがないわけです。同時に倫理と言う架け橋がなければ霊の世界ともつながらないので、物質は物質の世界の中に閉じ込められたままと言うことになります。

倫理と霊、どちらも在ってないような不確かなものですが、私たちの生きるという行為を、本当は根底から支えているもののような気がします。倫理、霊のどちらを欠いても人間とは彷徨える存在で、本当は不十分なもののように思えるのです。

 

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