乾いた音湿った音
先日友人の誕生日の席に招かれて、そこで何人かの音楽家と話をする機会がありました。そこで久しぶりに、私にとって西洋音楽って何なのですかと聞かれました。ずっと前にはよく聞かれたことで、特に日本人がたくさんヨーロッパに音楽の勉強をしに来ている時などは頻繁に聞かれたものでした。
久しぶりに改めて聞かれて、特に準備をしていなかったので、とっさに答えるしかなかったのですが、その時思いついたのが西洋の音楽全般と言うよりも、西洋の歌声、特にベルカントと言われている声について何か言えそうだったので言葉にしてみました。
私が常々ベルカントの声に感じているのは、この声がとても乾いていると言うことです。乾燥した乾ききった声と言ったらいいのか、大地に雨が降らずにヒビが入っているような感じを時々することもある声なのです。乾いていると言うより干からびていると言った方がいいかもしれません。
私の言葉に、質問をしたとの本人は少し首をかしげ、ベルカントだけですかと聞き返してきました。西洋の歌い手たちの全部が乾いているということでは無いのですが、概ね朗々と歌う、特に男性の歌手の声にはいつも乾いたものを感じていました。どうしてもっとしっとりとした声が出ないのかと言うのが正直言うと私が常々感じていたことで、その時それを言葉にしたのです。もう少しうまい言い方があるのかもしれないと思いつつもいつも感じている乾いたと言う印象をそのままぶつけてみました。乾いてない声って例えばどういう声ですかと聞かれたので、スレイザークとデラーと言う男性の歌い手の声を例に取りました。
しかしよく考えてみると、この渇いていると言う印象は、ベルカントの声に限らず、もしかしたら私がずっと西洋音楽と言われている音楽に感じていたことかもしれません。私はよくシューベルトの音楽を、西洋音楽の中では異端児だと言うふうに表現していますが、シューベルトの音楽は今までに乾いていると感じたことが一度もありません。例えば彼の歌などを見ると、歌のモチーフになっている詩に水をテーマにしたものが相当数あります。そういう意味で彼の音楽は水と関係が深いと言えるのですが、それはただ偶然ではなく、彼の音楽の持っている方向性が水と言うものに近づこうとしているのかもしれません。実にみずみずしい世界が、シューベルトの音楽の中では展開され随所に聞かれます。
私が若い頃、ヨーロッパの音楽を聴きはじめた頃、シューベルトが好きだと言うと、たいていの人は少し見下したように、バッハベートーベン、ブラームスをまず上げ、彼らを「3大B」と言って、彼らの音楽を聞かなければ西洋音楽はわからないと言われたものでした。しかしこの3人は私の耳にはとても乾いた音楽に聞こえます。シューベルト以外に潤いを感じる音楽はというとヘンデルとモーツァルトです。この2人もある程度は潤いと言うものを音楽の中に感じ取っていたのだと思います。ヘンデルはバッハと同じ年に生まれ、しかも相当近いところに生まれ、人生半ばにしてイギリスにわたってイギリスに帰化するのですが、水の国というか島国で水に囲まれているイギリスに、何か大きな運命的なものを感じたのかもしれません。
どこに音楽が乾いている、声が乾いていると言う印象を持つのかと聞かれると、うまく答えられないのですが、ある声楽の人と声について話をしていたときに、声と言うのは、体の中の粘液、リンパ腺のような水の要素をももっと音にしなければダメだと言う言い方をしていたのが今思い返すと、私が感じていることと同じなのかもしれないと言う気がします。
みずみずしい声と言うのは簡単に言うと聞いていて体の中に染み込んでくる声です。乾いた声っていうのは体の外で響いていて、歌唱力で歌っている様に聞こえ、上手だとか下手だとか、そういった評価の対象になりやすいものです。現在の歌い手の中で潤った声を出している人にはまだお目にかかっていません。ある程度潤いのありそうな声と言うのには、出会うことがあっても、しっとりとした声と言うのは、今の時代ではなくなってしまったのかもしれません。
なぜなのか、これは一考に値するものだと思います。