声の発見 その七

2013年1月25日

 声は聞こえるだけでなく見えるものだなんて、うそみたいです。

法螺を吹くものいい加減にしろ、なんて言われそうですが、これはワークショップで参加された方たちが実際に経験されていることです。

ブログ読者の多くの方にも、是非体験してもらいたいものだと思います。

 

聞こえると、見えるは別のことです。

お湯が熱いと感じるのは、食べ物がおいしいと感じるとは違います。

痛いと感じるのと、変なにおいがする、香水のにおいがすると言うのは違うことです。

 

聞こえると見えるとは、その位違うものと考えるのが一般的です。

正反対と思っている人もいます。

盲目の人と聾唖の人とを一緒にすることはできません。

 

ところが見えると聞こえるにはどこかで共通点があるのです。だから声が見える様になるのです。

見ると言う時に私たちは二つのことを同時にしています。

形を見ることと、明暗、つまり光を見ることです。

普通はこの二つをひっくるめて「見る」と呼んでいるだけです。

 

形を見るというのは視覚の仕事ではありません。これは目の筋肉が今見ているものの輪郭を追っている時に働く筋肉の動きを「動きを感じる感覚」が感じているのです。

もう話しに付いていけないと匙を投げないでください。

目の手術をした人は目に包帯を巻かれます。それはものを見ると目の筋肉が動いてしまい、目の筋肉が動いてしまっては手術したところが治らないからです。

 

でも心の思いも筋肉を動かします。目を閉じ瞑想の様な状態になっていると想像してください。しばらくすると気がつくのは、目は動いているということです。心が散漫であればある程目は動きます。ですから瞑想する時は、目は半開きにして、本の少しだけ周囲を感じている方が、自分の思いに振り回されずに、心が静止するのです。

それは相当の修行を積んでできることで、誰にでもできることではないので、目の手術の後にすぐできるわけではないので、お医者さんたちはあの手この手で考えて、最近ではテレビを見せる様になっています。

 

そんなことしたら目の筋肉はテレビの画像を追ってしまうと思われると思います。

ところがテレビの画像は二次元の平面ですし、それは光によって処理されているので、形としては捉えていないのです。

よく似ているのは、白い壁に一点を定めてそこを凝視する的です。目の筋肉は静止します。そこでは光だけを感じていると言っていいと思います。

光化した形です。それは手で触ることができない形です。それがテレビの映像です。そこでは目の筋肉は動かないのです。それでお医者さんたちは、目の手術の後の患者さんに「テレビだけ見ていてください」というのです。

 

声には体の筋肉が反応しています。もちろん繊細な、敏感な筋肉です。そこで筋肉の動きを「運動を感じる感覚」が察知します。それが声を感じている時に起こるのです。

声は聞いているだけでなく、筋肉の動きとしてとらえ、それを動きと感じるのです。

それは、三次元空間の中の、手で触ることのできるものを、目で見ている時に感じるのとよく似ていることなのです。

だから見える様に感じ、それで見えると言うことです。

 

 

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