シンガーソングライターとしてのシューベルト
シューベルトの死後に書かれた友人の手紙の中に、シューベルティアーデと言うシューベルトを中心にした友人たちによるプライベートな音楽会の初期に、シューベルト自身で彼が作曲した曲を自分自身でピアノを伴奏し歌っていたということが記されています。その後、シューベルトの歌がだんだんと世の中に認められるようになり、ウィーンのオペラ劇場で歌っていた歌手までが、シューベルトの歌を歌いにシューベルティアーデを訪れるようになったのですが、その手紙の中では上手な人はたくさんいたけれども、シューベルトが歌ったシューベルトの歌が一番美しかったと懐かしがっているのです。
初めてその手紙を読んだときには、そうだったのか位にしか感じなかったのですが、何十年もシューベルトの歌を聴きながら、私もできることならシューベルトが歌う自身の歌を聞きたかったと、だんだんと思うようになったのです。
シューベルトはこうしてみると、時代の先端を行ったシンガーソングライターと位置づけることができるのかもしれません。シューベルトは今で言うウィーン少年合唱団にいたので、歌の訓練なども受けていたのでしょう。きっと彼の歌にふさわしい声で彼の歌を彼が感じたように歌ったのだと思います。これがシューベルトのオリジナルと言っていいのかもしれません。
今日でもオリジナルではなく、カバーと言う言い方で、他の人が他の人の持ち歌を歌うことがよくあります。ビートルズのイエスタデイなどは何人ぐらいの人に歌われているのかわからないほどです。エディット・ピアフの愛の讃歌も同じで、たくさんの人がしかもそれぞれの言葉に訳して歌っています。私の知り合いでフランク・シナトラのファンと言う人がいて、フランク・シナトラの歌を聴きにアメリカまで行った位の人で、その人のもとで彼が持っていたレコードでフランク・シナトラが歌うMy Wesを聞いたことがあります。この歌も前の2つの曲ぐらいたくさんのカバーがあるようですが、初めてフランク・シナトラが歌うMy Wayを聞いたときにはなんだか本物は違うと言う印象が、何の迷いもなく私を襲ってきました。淡々と歌ってるんです。サビと言ったらいいのか途中から盛り上がるところがあるんですが、そこも特にドラマチックに盛り上げるのではなく、しんみりと盛り上げている感じでした。カバーで聞くと、そこのところは大体はドラマチックな盛り上がりを強調しているようなところがあって、それしか知らなかった時は、そういう曲なのだと思っていましたが、フランクシナトラのオリジナルを聞いて深く納得したのでした。
こうした経験からシューベルトの歌う歌というのを考えてみると、無性に聞きたくなってきます。今日に至るまで、何百と言う歌い手によって、シューベルトの歌は歌われてきたわけですが、それらをカバーと言う概念に当てはめてみれば、シューベルトのカバーをしていると言うことになるのでしょうか。
今日のクラシック音楽では既に100年100年300年といった年月を隔てて作られた曲が演奏されるわけですが、こうした形が生まれたのは、メンデルスゾーンが、バッハの教会音楽を演奏したところから始まるのだと言われています。それまでは作曲家が自分で指揮をしたりしたものが、演奏会で上演されたわけです。シンガーソングライターでは無いですが、作曲家自身が自分で作った曲を演奏したと言って良いのだと思います。それが今日ではいろいろな人がいろいろな解釈と言う名のもとに演奏したり歌ったりしているわけですが、オリジナルにはきっとオリジナルにしかないなんか特別な使命のようなものがあったような気がします。ジャズの世界でも、最近はずいぶんオリジナルをカバーしたようなもの、しかもそれをなるたけ正確にカバーしたものが演奏されているのだと言うことを聞きます。
カバーと言うのは見方を変えれば、その音楽のもっている別の可能性を引き出しているともいえます。ですから一概にカバーは良くないと言う言い方で切り捨てることができないのでしょう。加パーの方が上手だと言うこともあるかもしれません。とは言え、オリジナルと言うのはそれなりの使命とエネルギーを持っていると思うのです。それに接することができると言うのは、音楽を楽しむ人間にとっては大変な楽しみでもあるわけです。
クラシック音楽のように再生音楽と言う形をとっているものが今後どうなっていくのか私にはわかりませんが、ただ一つ予感できるのは、そうした音楽がだんだんと記号化していってしまうのではないかと言うことです。YouTubeには、1人の人間が一生かけても聞けないほどの曲が待機していると言うことですから、もう今の時点で音楽が記号化してしまったと言っても良いのかもしれません。
昔、能楽に関する本を読んでいた時に知ったことです。お能で上演される演目の相当数が世阿弥・観阿弥によって作られたものだと言われています。室町時代ですから、もう500年以上前と言うことになります。500年の間同じ演目がずっと上演されてきたわけで、それだけ聞くと、もうとっくにマンネリ化してしまって、伝統という名の下に醗酵してしまって、つまらないものだと言う言い方もできるのでしょう。ところが、その本の中では、お能はリハーサルの様なものがなく、本番の舞台で4人の囃し手、そして譜いの人たち、仕手までもがぶつかるのだそうです。それは即興と言うことになると書いてありました。500年間、毎回上演のたびに即興をしていたんだ、毎回アドリブと言って良いものだったのだと感動してしまいました。こういったことが日本だけで起こっているのかはわかりませんが、何かとても新鮮なような恐ろしいことのような気がします。
クラシック音楽は楽譜が残っていると言うところが強みと言う言い方もできるのでしょうが、楽譜によって伝えられたものと言うのは、オリジナルから相当離れてしまうと言うことも言われています。マンツーマンで指導を受けて、1000年と言う歴史の中を生きてきた日本の雅楽は直接指導を受けたと言う利点があって、もちろん想像でしかないのですが、おそらく1000年前とそんなに変わっていないのではないかと言われています。オリジナルに忠実なのでしょうか。
これを機会に、カバーでもなく、真似でもない、オリジナルというものの持つ意味を考え直してみたいと思います。