芸術は無用なのか

2024年9月7日

日本だけでなく、最近ではドイツも高等学校になると、芸術科目、あるいは体育などの時間が削られて、その分いわゆる日本で言う受験と言う流れの中に授業全体が組み込まれていきます。ドイツではアピトゥアー、という一斉テストがあり、日本での全国共通テストのようなものですが、それが実際に受験にあたり、そこでの成績によって大学進学が決まります。

その受験科目に昔は運動とか芸術というものが含まれていたのですが、最近ではそれはなくなってしまいました。それと同時に、高等学部での芸術科目、体育科目はなくなったてしまったということです。

その傾向を見ると、結局勉強と言うのは受験と言うもののために存在していると言うふうに言えるわけで、日本やドイツに限らずおそらく世界中でこの傾向は顕著になっていると思います。なぜ受験科目から芸術とか体育がなくなったのかは分かりませんが、もしかしたらそんな科目は必要ないというのが先で、その科目を削ってしまって、その結果、それを試験する必要がなくなったと見たほうがいいのかもしれません。

いずれにしよう芸術や体育などと言うのは、無用の長物と言う位置づけになってしまったわけです。確かに現実からすれば実用性は無いわけで、俳人、松尾芭蕉が言うように、「俳句は夏のこたつのようなもの」と言うのはを額面通り受け取ってしまえば、確かに役に立たない無用の長物と言うことになりますが、芭蕉はそういう意味で言ったのではなく、確かに実生活に役立つものではないが、実はそれが故に大切なものだと言う含みがあるのだと思います。そして当時そのことは多くの人に支持されていたのです。

ある試験に出てくるような問題をドリルして、練習して、何回も繰り返してできるようになると言うのも成長期の子ども達にとって一つの訓練なのでしょうが、芸術、音楽とか美術とか、それ以し外のいろいろな芸術的なものと付き合うことで、磨かれる独特の感性というものが無視されているのです。確かに測れないものですから無視されやすいですが、ないのかといえばやはり何かはあるはずです。それは直接に役立つかどうかと言う観点からすれば、役に立たないものと言うことになりますが、実は役に立たないが故に大切なのだと言う人生の不思議を宿しています。

私が高校に入った時は芸術科目があって、音楽を選ぶか美術を選ぶかと言う選択でした。芸術科目があると言うのは何の疑いもなく前提でした。音楽ができて何になる?なんて問いを出す人はいなかったのです。絵が描けてどうする?なんて言うことは聞く人がいなかったくらい、当然のものでした。人間にはそう言うものが必要だと、社会レベルで確信していたのです。今から見るとのんびりした時代だったと言えそうです。

今はそれが欠如してしまったのです。アメリカ的プラグマティズム、実用主義が中心になってしまい、それこそ役に立つか立たないかが最終的で決定的なものになってしまったのでず。こうなってしまっては、人間は社会のために機能する道具になるかならないかと言う選択しかなくなってしまいます。私が見るにどうやら人間は道具になってしまったようです。

芸術が大切なのかどうかよりも、本当は人間は道具なのかどうかと言う問いが大事なのだと思います。社会と言うのはいろいろな意味を持っています。人間が共存していくための様々な要素が混じりあったものが社会だと思います。ただ今日のように社会といった時に経済を中心に考えた社会構造がいの一番に優先され、社会的努力はほとんどがそちらの方に向かってしまいます。これでは社会はいつか破綻してしまうはずです。人間は機械ではないからです。機械にはなりきれないのだと思います。実は機械というのが人間を真似したものでとは言え、人間のすべてを写せたわけではなく、人間が効率的に良いと理解した部分だけを機械のほうに落としていったと見るのが正しいのではないでしょうか。もし人間の全てを機械に移したならば、機械も芸術を楽しむ余白というか、余韻を備えつけてもらえたはずです。

ここまで来てしまった社会の動きはもう後戻りすることができないでしょう。しかし、新しい観点から芸術と言うものの必要性をもう一度理解し、それを何とか実生活の中に、教育の世界に落とし、人間の成長の一端にする事は将来を考えたときに大切なことだと思います。芸術と言いましたが、基本的にはある意味で「無駄なこと全般」なのかもしれません。無駄を削ることが大切なのか、無駄と言うものを含みながら人生を理解するのかということだと思います。

コメントをどうぞ