事実を超えると言う事。直感礼賛。

2024年9月20日

色々と人の話を聞いているときに感じるのですが、話が体に入ってくる体験と、話がそばをただ通り過ぎて行ってるだけの時があって、その違いは何なんだろうと考えるのです。同じように事実を語っているにもかかわらず、ある人がしゃべると、その事柄が単なる事実で終わってしまうのに、つまりつまらないのに、別の人がしゃべると事実以上のことが話されているような気がするとも言えそうです。話の内容のリアリティーの様なものです。これはどこから生まれるのでしょう。考えてみたいと思います。

落語などにも共通していることの様です。同じ噺を何人かの噺家で聞いてみると随分と違いがあるものです。もちろん好みがあるので、何がいいとは一概には言えないですが、単に個性の違いという以上の、臨場感があるかないかの違いは大きく、一番目立つのは二つ目くらいと名人と比べてみる時です。

音楽も同じ曲を何人もの人が演奏します。クラシックばかりでなく、ジャズも、ポップも、シャンソンも、歌謡曲も演歌も同じ曲がたくさんの人によって演奏されたり歌われたりしています。これが同じ曲かと言われるほどに違うものがあるのですから、面白いものです。時代の好みと言うのもありますが、音楽をどのように解釈しどのように聞いてもらいたいかそれはその人の音楽的力量、才能といったもの以上に、音楽的人生的直感によるんだと思います。以前にも書いたようにオリジナルが説得力を持っているのは、その音楽的人生的直感によるんだと思います。

落語において名人を名人たらしめるのは、場数を踏んだことで生まれる経験なのかもしれませんが、その経験を磨いていったところに宿る直感なのではないのでしょうか。直感が力を発揮するのは、その一瞬でものが決まってしまうと言う時です。音楽にしろ、落語にしろ、講演会などのお話にしても、大切な一瞬の時に、直感からのバックアップがあるかないかに尽きると思います。

直感を磨くと言うのは難しいことだとわかってくると、ようやく一人前の領域に踏み込んだことに何るのかもしれせん。ただ上手になれば良いと言うのでは無いのです。練習をすれば上手になるのですが、練習をしただけではその直感が降りてこないのです。そこがもう才能と言うしかない世界なのかもしれません。直感を感じる演奏、噺には、リラックスしたというかうまい寓意に力が抜けているのを感じるのです。うまさを超えたところにある脱力の様なものです。

クラシックの音楽でシンフォニーなどを聴いていると、指揮者が楽譜のページをめくりながら指揮をしているのを見かけますが、昔はとても不思議に思っていたのですが、最近はあることがわかってから不思議ではなくなりました。そのあることと言うのは、楽譜を見ながら演奏していると、作曲した本人と直面しその時に直感が降りてくると言うことです。音楽などは全部アンプしてしまえば楽譜など必要ないと考えるのが普通なのでしょうが、楽譜を目の前にしていると言うことで、作曲家と対面しながら、その一瞬、一瞬に直感を下ろすという作業が、指揮者の中で起こっているのです。

私たちの日常生活も実はいろいろな直感によって成り立っているところがあるのではないかと思います。探してみてください。

 

 

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