文法の不思議

2024年10月1日

文法と言うのは難しそうに見えて、本当は単純なものではないかと思うことがあります。それなのに、文法と言うのは、何かとないがしろにされているようです。

どうして文法がないがしろされるようになつてしまうのかということですが、言葉は何かを説明するためという考えが基本にあり、ネット上の言葉の使われ方などを見ていると、学問的であれ、評論的であれ説明が大半というかほとんどです。みんな賢く振る舞っていて、どこに首を突っ込んでみても、お利口さんの集団です。大事なのは上手に説明するための整理された知識であり、そのための語彙です。みんなはそれらを巧みに駆使しています。典型的な知的なタイプです。ところが老子の言葉で言えば、「知る者は語らず、語るものは知らず」と言うことの様ですから、知識というのは満足に知らない人たちにとって都合のいい道具であり、武器だということのようです。

文法は少し特殊です。ただ特殊なだけでなく、実は大切なものだと言うことはぜひ知っていただきたいのです。実際に言葉を使っている時には表立っては見えないものですが、文法がなくなったら大変で、言葉はガラクタ同様になってしまい機能しなくなります。箍(たが)の外れた、桶であり、タライであり、樽ですからバラバラになってしまいます。単語だけがぶさまにゴロゴロと転がっているようなもので、例えて言えば外国語を単語だけ並べてどうにかしようともがきながら何かを訴えているようなものです。正真正銘のブロークンです。

会話などでは文法が少しくらい間違っても語彙さえ押さえておけば大方通じるものだて考えられていますから、文法などはどうでもいいと言われてしまうものですが、文法のない言葉は箍の外れた桶ですからバラバラで姿見が悪いです。文法は言葉に姿、形を与えます。語彙だけでは形ができないのです。ということは人間は知性だけではまだバラバラだということです。知的な人間というのは実はバラバラだと言うことなのです。人間を人間たらしめているのは意志です。文法は言葉の意志を司っているものなのです。樽は箍があって初めて樽になるのです。

 

日本語の場合は少し特殊かもしれません。文法の位置付けがヨーロッパの言葉とは随分違います。日本語にあってまず大切なのは語彙同士のつながりであり、次に単語を、語彙をどういうシチュエーションで使うかということです。これはまさに空気を読むという離業のことで、空気が大役を演じるので、成文化された規則としての文法ではないようです。文法という成文化された規則よりも、空気という見えない、成文化されていないものが文法の役わりを演じているのです。ですから文法の代わりに空気を読むことを会得すればいいのかもしれません。しかし空気となったとは言え、文法は文法なのです。ですから、文法の本質的なところはしっかり抑えておきたいと思います。

 

文法には言葉の意志が潜んでいます。ここがとても大事なところです。語順を変えるだけで、意味と言うよりもニュアンスが変わってしまいます。これは文法的テクニックですが、知らずのうちにずいぶん使っているものです。あるいは物事を婉曲に言おうとするときには、接続法と言う特殊な形を使います。これなどはほとんど日常的に使われているので、文法的に説明しようとする人はいないと思いますが、厳密に言えば文法処理だと言うことです。「お手伝いをお願いしてもよろしいでしょうか?」などと言う言い方は、表現としては上等な部類に入ると思います。こういう事は文法の基礎をしっかり抑えておけば、うまく使えるようになり、用を足すだけの日常会話ではなく、日本語で言うならば、丁寧語や謙譲語のようなものが文法によってうまく表現されるのです。

ヨーロッパの言葉を学ぶときに、特に日本人からすると、文法と言うものを手がかりにして学ぶとその言葉の全体像が見えてきます。会話をしているときに、ただ言葉を並べているだけではなく、そうした文法的な背景を知っておくと、いろいろなニュアンスを会話の中に取り込めることになります。

逆に、自分の言葉も外国も学ぶように、外から眺めてみると、意外な発見があるものです。同じ道が行きと帰りとでは全く違う風景を見せるようなものかもしれません。

また文法は言葉自体の骨組みをしっかりと支えているので、言葉を比べるときに文法を手がかりにするといろいろな発見があるものです。

文法の不思議に気づいてみると、言葉と言うものが生き物だと言うことに気がつきます。

 

 

 

 

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