言葉の行くへ

2024年10月8日

言葉が常に変化する流動的なものだと言うことは百も承知していますが、年を重ねると若い人たちの使う言葉が気になるものです。そうした時世代をひしひしと感じてしまうのですが、今の若いものはなんて野暮なことは言わないまでも、不自然を感じるのです。そんな時、言葉は変化するのだと心の中で言い聞かせる訳です。

日本語を遡るときに、平安時代までは何とか読めることに驚きます。さすが万葉仮名まで時代を遡ってしまうと、手が出ませんが、平安時代までならず辞書を片手に文法の約束事を踏まえれば何とか読めるものです。万葉仮名は別格で、多分、平安人にとっても万葉仮名はすでに難しいものになっていのではないかと考えています。

日本語は、西洋の書物を翻訳することから、単語を新しく作ったので、言葉の姿が大和言葉からガッと変わってしまいました。ところが文法は流石にしぶとく、西洋的な発想で日本語の使い方を説明することは十分できず、変革の憂き目に遭うことはありませんでした。

古い文学を読んでいときに感じるのは、言葉は変化はするものの、進化するものなのだろうかと言うことです。ダーウィンの進化論が罷り通っていた時には、進化ははべての分野でもてはやされ誇らしいもので、その影響は言葉にも、社会制度にも見られ、どんどん進化するものだと思い込まされていた様な気がします。社会主義は資本主義の後に来る進化したものと考えられていたのです。

しかし私の個人的な感想だと、古典のものを読んでいるときに、言葉は進化すると言うよりもむしろ退化するものではないのかと言うことです。古い言葉の方が輪郭がはっきりしていて、迷いがなくキッパリとしているのです。説明のための単なる道具ではなく、表現が何かを伝えようとしているのでしょう。個人的には、昔の言葉の方が詩の言葉に近い様に感じます。今の言葉はすっかり説明文で、散文になってしまったのです。電気製品の説明が気のような文章は今までなかったものです。そして悲しいかな、詩までもが散文になっているのです。

簡単にまとめると、言葉から詩の要素が薄れてきていると言うことだと言えそうです。言葉の中に詩の要素が生きていると、その言葉には違う息吹が通っていて、言葉の中に人格を感じます。気骨もです。今は上手に説明することがとにかく大事で、言葉の息吹とか気骨とかということはあまり考慮されないようです。

言葉の未来はどん風に捉えられるのでしょう。

これからどんどん言葉は力をなくしてしまうのでしょうか。

それは人間の精神生活にとってよくないことなのでしょうか。

個人的には、長い目で見ると、悲観的にはなりません。なぜかというと、言葉はいつまでも言葉としてありつつけるものではないと思っているからです。むしろ今まで人間は心のことや、精神性をあまりに言葉に頼りすぎていたと言ってもいいのです。ところがこれからは、言葉では語れない精神性というものが、焦点を当てられる様になってきます。非言語化が際立ってくるのではないかと思うのです。

私はドイツで生活しているので、ドイツ人が何でも言葉にして説明することに少し辟易を感じています。逆を言うと言葉になってない部分は理解されていないのです。これは知性に傾きすぎた弊害で、日本人である私からすると非常に滑稽な現象で、もしこのまま何でも言葉にするとなると、人間生活、特に精神生活は硬直化してしまうような気がします。つまり語彙、ボキャブラリーが豊富になると優秀な言葉と評価されるのでしょうが、それは単に知的な言葉になったに過ぎないのです。すでに知性の産物としての言葉は広く普及しているのです。既に言葉は用を足すための道具となっています。知的精神生活は饒舌なものなのです。

言葉に感情とか、意思とか言うものが、比重を持ってくれば、言葉数はだんだん少なくなっていくのではないかと言う気がするのです。テレパシーのようなものは、過去の遺物なのか、それとも将来のコミュニケーションの方法になっていくのか、私はこの流れを見つめていきたいと思います。

アメリカの女性がオーストラリアのアポリジニの人の中に入って生活した時の様子を書いていますが、彼らがあまりにも会話をしないことが不思議で、彼らに「なぜ喋らないのか、声は何のためにあるのか」と聞くと、「テレパシーで相手のことはわかるので喋らなくてもいい」また声は「歌うためと祈るため」と言う答えが返ってきたそうです。

何となく示唆に富む貴重な話です。

 

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