無機質と有機質、文法のいらない言葉
以前に文法のことを書いた時に日本語の文法が西洋語のものとは違うことを指摘しておきました。日本語には文法などなく、言葉と言葉を繋げるための規則があるだけだと言いたくなることもあるほどの様なことを言ったと思います。
私たちが学校で習った文章の定義はピリオッドを打って完了でした。ピリオッドを打つまでは一つの内容について発言しているのです。ピリオッドに至るまでに使われるコンマやセミコロンハイフェンなどはその内容を補作するための手段ということなのです。このような文法の法則は基本的に西洋人の思考の写し絵に他なりません。さらに私がよく思うのは西洋語の文法は算数の数式だと言うことです。
では日本語の場合はどうなるのでしょう。日本語という言葉にとって文法、文章の規則、あるはそもそも文章と言うのはどの様なものとして捉えられているのでしょうか。
源氏物語には句読点はありません。と言うことは、通例の文法からすると「終わっていない」と言うことです。西洋的に見れば源氏物語は始まりも終わりもないものですから、西洋語の影響を受けた現代人には理解できないものです。「それで書き手の伝えたい内容が読者に伝わるのか」と不思議がるのではないかと思います。
しかし現実にはそれで十分に内容が伝わっているのです。そこには何か別の文章を成り立たせている力が存在していると言うことなのではなのでしょうか。言葉そのものに別の力が備わっていると言うことです。
私がイメージするのは、西洋語は単語が基礎になっていると言うことと、単語は無気質なものでそれを繋げ意味をつくるために必要になったのが文法だと言うことです。
ところが日本語の場合、単語以前のシルベル、つまり「あいうえお」と言われる五十音が大きな存在で、ほとんど西洋語の単語に相当する意味の暗示力を持っているとことを指摘したいと思います。そのことから西洋語の単語のような無機質なのではなく、つまりゴロゴロした石ではないので、文法のような手段を用いる必要がないのではないかと言うことです。またそこから俳句が可能になると言うことです。要約すると、日本語というのは、言葉そのものに西洋語とは比べられない力があると言うことです。文法など必要としていない言葉なのです。
もちろん日本語にも言葉を使う上での規則はありますがその発想は西洋語の文法とは誓ったものの様です。この違いがうまく説明できれば二つの文化の違いの基本的な違いが見えてくるの思っています。