時間の不思議
時間は三次元の上の四次元のものと教わった覚えがあります。ずいぶん若い時のことです。その時にはなんのことだか分かっていなかったように思います。ところが最近になってわかるような気がしてきました。本当に気がしているだけです。
ヒントは時間が空間的な扱いを不当に受けていることと、時間の本性は引き算と関係のあるものではないかと気付いたことでした。それからは時間への興味が増し、深く付き合っています。
何故引き算かというと、引き算というのは計算の中でも特殊な世界で、算数を子どもとやっている時に、引き算でつまづく子どもが実に多いのです。そのことがとても不思議でした。つまづく原因を知りたく色々資料を集めたのですが、私が納得できるものには出会いませんでした。
足し算的に増えるというのは嬉しいものです。知識が増えるのは実に楽しい出来事です。ところが、減ってゆくというのは少し違います。不安の原因にもなりかねないからです。不安感というのと関係しているのかもしれません。銀行口座の残高が減っていったら心細いばかりです。
その子どもたちと時計を読むという授業を持った時にはまた新しい発見がありました。クラスにはデジタルの腕時計を持っている子どもがほとんどでした。彼らにしたら時間は数字で表されるもののようでした。ですから文字盤の上を長針と短針が回る時計は彼らにとって珍しいばかりで、時計ではあっても別物だったようなのです。
普通は計算というのは十進法で行います。それなのに、こと時計に関しては10ではなく12まである時間は十二進法だからです。文字盤は12まで数字が書かれてあるのです。この十二進法に相当苦戦していました。しかも長針と短針の扱いは全く別で、短針では3時が長針の時は15分、短針の6時が短針では30分という、あってはならないようなことが起こっているのです。何がどうなっているのか皆目見当がつかないでいる子どももいました。子どもは全体的にパニック状態でした。
文字盤と長針短針をなんとかクリアーした後今度は、今1時15分で2時にお客さんが来ることになっています。2時まであと何分でしょうという質問が待っていました。それには答えられないのです。2時引く1時15分なんてどうして計算するのか想像もつかないのです。計算は数字だけでやるもので、時間とか分などが入ってきてはいけないのです。数字で示されていたデジタルの時計とは同じ時間なのに全然違う世界のことのように感じていたと思います。
子どもが時計の文字盤や志願の計算などで起こしていたパニック状態と、大人が、時間は四次元です、と言われた時に起こすパニックとは、全く想像を絶するという点で似ているように思います。時間というのは知っているようで、実は常識を超えたものに違いないのです。
もう一つの問題は、私たちが時間を空間的に捉えられているということです。このことは見過ごされがちですが大切なポイントです。空間的というのは、時間というのは測られるものと考えているからです。そのことになんの不思議も感じていないのです。測定されるということからしてすでに空間の延長に時間を置いて扱っているのですが、そのことはあまりに普通に行われるので考えられないのです。
時間は測れないものと知ることから時間に近づくきっかけが掴めます。例として挙げると、物事に夢中になると、時間はどうなるかというと、消えてなくなってしまうのです。測るどころではありません。話に夢中になると時間が経つのを忘れるのは当たり前なのです。ものづくりも似ています。手仕事などに一生懸命になったり庭仕事に追われていると、時間は普通の意味では経っているのに、あたかも止まってしまったようなものに変わっているのです。時間はあるのに消えてなくなるものと言っていいのかもしれません。
逆に退屈な話を聞かされている時の時間の流れはとても長く感じられます。ということは客観的な時間というのはないと言っていいのです。時間は伸びたり縮んだりしている変幻自在なものなのです。時間を測るというのは、私たちの生活習慣に合わせて便宜上しているだけのことで、実は測ったところで何にもならないものなのです。それどころか測られた時間は迷惑がっているはずです。
このように時間に対して罪深いことをしているのです。本来物質的ではない時間を物質とみなしていることです。初めて見る外国を自国の延長に置いて勝手なコメントをして判断しているような失礼なことなのです。そんなふうに外国を見ても何も見たことにはなっていないのです。相手の土俵で相撲を取るということが必要なのです。
では時間とどのように付き合ったらいいのでしようか。
まず時間は在るのに、無いものだと言うことです。流れているのに止まっているとも言えます。物質の法則に囚われていないということです。
こうした特性を私たちは無視して、全く物質的に時間を測って得意になっているのです。より正確な時計を作ることに躍起になったりしているのです。しかし本当の時間は時計の向こうにあるのです。
私たちが感じている時間は、そうした変幻自在な物質では無い時間が物質空間に働きかけているものです。しかしもし時間を測ろうとしたら、測られた時間は時間の死骸のようなものなので、生きた時間とは違います。肉体から魂の抜けた死骸は生前の人とはもう違った存在だと言うのと同じです。死骸でない、生きた時間をどこで見ることができるのでしょうか。
芸術が作り出す一瞬の中にです。優れた建築が作り出す空間の中で感じる至福の瞬間、絵に感動する神々しい瞬間、音楽で体験する光のような瞬間は魂の通った時間だと思つています。一瞬とは永遠の別名なのです。