鏡にの中の鏡

2025年1月6日

鏡の中の鏡という作品はミヒャエル・エンデがとても大切にしていた作品でした。モモを書き始めた頃から、この小品集に着手し、はてしない物語が完成する頃まで三十の話を書きつづけていたとおっしゃっていましたから、完成まで10年以上の年月が流れています。この間にそれぞれの話の奇怪な方向がズレることなく書き続けられたのですから、エンデの深いところを貫通している、思想と感性そして意志がこの本に結集していると見ていいと思います。

余談ですが、ミヒャエル・エンデのエンデというのは苗字です。意味するところは終わりということなのですが、彼の書く話は「果てしない物語」のように終わりがないものなのですから、名は体を表すとは真逆のことが起っている様です。

この鏡の中の鏡に登場する話はどれも始まりも終わりもないような、空中を無重力に浮いているような不思議を感じさせる話ばかりです。どんな話かと聞かれて、うまく答えられるような話は一つもありません。読んでいる最中は流れに乗っかって連れて行かれるのですが、後で考えても話の筋がどうだったのか皆目思い出せないと言う様なことが起こってしまうのですから、不思議としか言いようがありません。副題が「迷宮」ですから、迷う方が本望で、正当と言っていいのかもしれません。迷っている中で何かに出会うと言うことです。本題は「鏡の中の鏡」ですから、永遠に相対峙した鏡が作り出す鏡像が繰り返されることをイメージしています。鏡像は限りなく小さくなり、終わりがないと言うことになります。エンデ(終わり)という名前は見事すぎる矛盾です。

この迷宮の道先案内人は物語の姿を持った哲学的遊戯です。全ての話は矛盾の連続で、時には前後の脈絡が全く感じられないものすらあります。物語という限界を超えてしまっています。もちろん意図的にその用にしているのですが、それでも話が壊れないのは言葉の力です。この不思議を支えているのはエンデさんならではの考え抜かれた表現を可能にする言葉です。哲学と文学のハイブリッドです。私が大切なことと考えているのは、それらの文章は意味を伝えるものではなく、物語の意志を伝えるものだということです。エンデはこの本で意志を表現すること、物語に潜んでいる意志の表現に挑んだのではないかと思っています。物語の潜在意識と言っていいのかもしれません。語られているストーリーの断片を繋ぎ合わせても物語は辻褄の合ったものにはならないのです。どこかで何かが歪んでいるのです。

エンデは、実は人間の営んでいる人生という代物はもそもそそんなものだと言いたいのかしれません。はじめも終わりもなく、あるのは今だけで、過去でも未来でもないのだと言っているのかもしれません。今を素直に繋げてゆけば、辻褄など合わない、迷宮の様なものなのですが、それが人生だと言うことかもしれません。

 

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