ウソの実態 その一
いつ自分が初めてウソをついたか、はっきり覚えてはいませんが、自分の人生は随分ウソで固められています。
心の隅に恥ずかし思いはありますが、今はそんなものかと居直っています。
ウソをつくのは仕方なくついているものです。楽しくウソをつくと言うのは、信じがたいことです。
ウソをつくことにはいつも後悔が付きまとっていますし、結果的には自分を苦占めるものですから、ウソはつきたくない、これも正直な告白です。
ウソをつくことで人間は自分を背伸びさせてしまいます。背伸びをする、というより背伸びをさせられてしまうという感じです。いずれにしろ背伸びした分、自分ではないのですから無理があり、いつか疲れてしまいます。そして後悔です。この後悔は、ウソをつかなければよかったということから来ていて、必ず自分自身を苦しめます。
ウソをつくつもりが無くてウソをついたことになっていることもあります。正しいと言われていることをやっていたはずなのに、それが嘘だと解った時は辛いです。それは意図的についたウソとは違うものですが、ウソの持つ性格上人を傷つけてしまっていますから、苦しみは同じ様に付きまといます。
それから、簡単には「ウソはよくない」とはいえない微妙なものがウソにはあって、意外と人間味の様なものはウソとそう遠くないものかもしれません。
ウソの罪なところは、人を傷つけることですが、実は人を傷つけている以上に自分のほうが傷ついているのではないか、そう思うことがあります。
ウソをついた後は、それが他の人にばれていなくても、良心が痛んで生きる元気が無くなることがあるのですから、ウソの中には相当の負の力が働いています。そんなことはみんな知っているの、ウソをついてしまいます。
子どものころについたウソは、今思いだしても恥ずかしいです。
わが家では誕生日を祝うという習慣が無かったのですが、学校の友人が「昨日は誕生会だった」なんて嬉しそうに言っているのを聞いて、自分も誕生会をやった様な事を言ってしまって、「何故僕を呼んでくれなかったの」という友人が何人か出て来て、結局それが嘘だとばれてしまったことがあります。あの時の照れくささは、今でも穴があったら入りたいくらいです。背筋がぞっとしました。
でも何故ウソがあるのでしょうか・・
人類初のウソは・・
自分の子ども時代を振り返る時にもですが、周囲の子どもたちの様子を見ていると、子どもの成長とウソをつくこととは随分深い関係がある様です。
ウソをつく時、自分を守ろうとする様な防御の姿勢が感じられます。自分のプライドだと思います。そのウソがばれれば逆に自分のプライドが傷つくことは薄々承知していてもウソをつかせる何かがわたしの心の中にはあります。
ウソはつくのでしょうか、つかされるのでしょうか・・
ウソをつくことをそそのかしているのは何でしょうか。
私がついてきたウソは、ウソの数々は今どこに行ったのでしょうか。時間が経って消えてしまったのでしょうか。そうだと嬉しいです。
もしそれらのウソを当時の自分が頑なになって、自分でも信じ切ってしまったとしたらどうなっているのでしょう。そのウソの中に自分が閉じ込められてしまっているはずです。そしてそれがあたかも自分かの様な顔をして世の中を闊歩しているのでしょう。もう一人の自分ができてしまった様な感じです。
ウソは、もう一人の自分ということではないか、そう考えることでウソの姿が少しだけ見えて来る様な気がします。
犯罪心理学の本の中で読んだことです。レスラーというFBI関係でお仕事をされていた方の書かれたものでした。
凶悪犯人と世の中から呼ばれてしまう様な事をしでかした人たちがいます。その人たちの犯罪の裏には、たいてい人間憎悪、人間不信があると彼は言います。幼いころに周囲から手ひどくいじめられたとか、信じていた大人から裏切られたとか、そういうことが成長の中で時間をかけて犯罪という行動にむすびついてゆくというのです。特に残虐な性的犯罪を犯した人たちの生い立ちには必ずそうした形跡があると言われています。年齢的には八歳から十二歳の間です。
しかも彼らは自分の犯した行為を異常なまでの力で正当化するのだそうです。カウンセリングの人たちが、彼らのウソを見抜けないことがほとんどだとも書いていました。自分の思いこみで作られた城の中にすっぽりと自分を閉じ込めてしまうのです。しかもそれを他人が本当の姿だと信じてしまうほどにです。自分不信に陥らないのでしょうか。
そんなことが本当にできるのかと、本で読んだ時には半信半疑でした。そういう人たちは、きっと、あまりに自分の本当の姿がみじめで、自分が作ったもう一つの、架空の自分の中で生きるしかないのかもしれません。
ウソで固めた自分を生きる、壮絶なことです。とても辛いことではないか、そう思うのですが、その様にしか生きることができない人もいるのです。