個人主義とは一人一人がみんな天才になることです
個人主義と全体主義のちがいはどこを見ればいいのだろう。
このテーマは珍しいものではなく、かえって言い古されているものでもあります。今更何が言いたいのかと言われてしまうかもしれません。
ただ個人主機についてどのように分かっているのかと問い直すと、意外とわかっていないものかもしれないと思うのです。というのは、個人主義と言っている割に現代人は辛い孤独感に苛まされている面もあるので、ある意味では個人主機というものが負担になっているとみてもいいのかもしれません。個人主義は口で言うほど簡単ではないということかもしれません。
個性的に生きるとか、自己主張をしっかりできるようにというレベルで個人主義を語るのであれば、個人主義はわかったつもりになり易いものですが、人間が個人として自立しているということをどのように捉えるかで、話はずいぶん変わってしまいます。
個人主義に孤独はつきものですが、孤独に負のイメージを持つようでは個人主義に近づくことはできないと思っています。個人主義に伴う孤独、孤独感とは、他者から阻害されていることではなく、ただ自分は他人とは違うということを認識することだからです。
個人主義の反対は全体主義ですが、全体主義というのは皆んなおんなじというもので、周囲に個人が溶けてしまっている状態です。個人が全体から見て一つの歯車のようになっているのです。個人が全体に呑み込まれてしまっているわけですから、危険な状態だと言えます。個人が犠牲になってしまうからです。人類が全体主義から抜け出して個人主機に到達したと考えていいのか、まだまだだというべきなのかは、人によって、立場によって、考え方によって違いがあるとは思うのですが、孤独が負のイメージの中に置かれるところでは、個人主義はまだ成熟の域に達していないと見ていいと思います。
友人の一人に、シュタイナーがいう意識魂について文章にしたり、それをまとめて本にしたり、セミナーなどをしている哲学博士がいます。会うといつもこのテーマで意見を交換するのですが、私と彼の間では、意識魂の特徴は「一人ひとりが、その人にふさわしい天才を持っている」ということになっています。皆んな天才なのです。もちろんそれぞれに見合った形でです。古い意識状態では徒党を組むような傾向があり、全体をまとめる代表者を奉るものなのです。古い意識では、天才はみんなが天才なのではなく、誰か特別な能力を持った人が天才なのです。
個人主義の時代にあって、個人と個人をつなげているものは相手を敬うという姿勢です。自分も天才だけど相手も同じように天才なのだということを認めることなのです。そしてお互いに尊敬の念を抱くのです。相手を理解するとか、最悪の場合相手をコメントしたりすることからは、意識魂の個人主義の時代にあっては、社会が成立しないのです。全体主義は社会を強力な箍(たが)でくくりつけて縛っておけば維持できて、それでよかったのです。意識魂の個人主義にそのような箍はないのです。その代わりにお互いに敬わなければならないのです。
感謝というものも大きな力です。そして一人ひとりが哲学者のように考えることが求められます。感謝と考えることが意識魂の時代には必須なのです。
ちなみに感謝と考えるという言葉はドイツ語では、DankenとDenkenという具合にとても近い言葉なのです。きっと語源的に見ると同じ根っこにたどり着く言葉かもしれません。
ということは、現代は意識魂の時代だということになっていますが、実態はまだまだ入り口の前にいる程度なのかもしれません。ITが進んで社会的に幅を利かすようになったときに、個人がしっかり考える力を持っていれば、ITに流されることはないのではないかと楽観しています。しかし今のままではIT全体主義に飲み込まれてしまうかもしれません。