クラシック音楽のこれから

2025年1月23日

クラシック音楽の未来について考えてみます。しかしこの音楽の王道は、百年どころか、二百年、三百年、いやそれ以上前に作られた音楽を演目としてコンサートでは演奏しています。マーラー、ブルックナー、ブラームス、シューマン、ショパン、シューベルト、ベートーヴエン、モーツァルト、ハイドン、バッハ、ヘンデル等々。これは常識なのでそこに疑問を持つ人はほとんどいないと言うのが現実ですが、考えてみると不思議でもあります。

今生きている音楽家たちの作品はほとんど言っていいほど演奏されることはないのです。これでいいのかと声を上げても、集客力の問題が浮上してしまいます。現代音楽に集まる人は非常に少ないのです。ごく僅かの人たちが興味を持っているに過ぎないのです。それでは音楽会を主催することができないのが現実です。

なぜそうなっているのでしょうか。なぜ音楽ファンは古い音楽ばかり聞くのでしょうか。理由はただ古いと言うだけでなく、音楽にそれなりの存在感があるからです。

いまクラシック音楽は演奏家の時代だと言っていい様です。一つの作品を何人もの人が演奏しますし録音もしています。一人のピアニストがベートーヴェンのピアノソナタ全曲を五回も録音したりもしています。何がそうさせるのでしょうか。一つには商業的に成立しているからです。大作曲家の作品が繰り返し演目に登るのは商業的に採算が取れることも大きな要因です。もう一つは今日の音楽的の創造エネルギーは演奏の方に傾いているからなのです。それらの演奏をコメントして楽しんでいるのです。

 

クラシック音楽が歩んでいるこうした足取りから未来の音楽生まれて来るものなのでしょうか。百年後もバッハに心酔しているのでしょうか。他の分野を見ると却ってそちらの音楽の方が、日々新しい作品を上梓しているので、時代と呼応していると言えそうです。したがって健全だと言えなくもない様です。少なくとも時代の空気を吸っています。政治的に反戦の内容を歌にしたりしている訳です。時代として共感できるものがあります。しかしそれは音楽としてではなく、歌詞が政治問題を反映していたりしているからだとも言えます。

クラシック音楽が王道である所以は、音楽の中に世界観が生きているからです。音楽だけで何かを語っているのです。語れるのです。これは特筆すべきことです。音楽は当時すでにそこまで来ていたのです。ここに多くの音楽ファンは共鳴しているのです。古くでも新しいとも言えるのです。

私は若い頃音楽というのは音楽の箱の様なものがあって、そこから無尽蔵に音楽が湧いているのだと思っていました。しかし今日かつて作曲されたものばかりが演奏されているのをみると、音楽箱から湧いてくる音楽は枯れてしまっているのではないかと思ってしまうのです。確かに古くても新しい面はあるにしても、もしそうだとしたら大変なことです。もう新しい音楽は生まれないのです。そしてこれからの音楽はどうなってましうのでしょう。

 

 

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