ピアニッシモで語る
ピアノというと、まずは楽器のピアノを思い浮かべますが、楽器のピアノはそもそもピアノフォルテと言われたので、ピアノというのは省略された名称です。ピアノ以前の鍵盤楽器、チェンバロ、ハープシコードは張られた弦を爪で引っ掻くもので、強弱をコントロールできなかったのです。それを弦をハンマーで叩くハンマークラビコードが発明され強弱がつけられるようになって、ピアノフォルテに発達し今日のピアノに至っています。
イタリア人と話しているとよく「ピアノ、ピアノ」と言われます。日本人は少しせっかちなように見られて゜「ゆっくりやったらどうか」という意味あいで「ピアノ、ピアノ」と言われます。小さい音の他にゆっくりという意味がピアノにはあるのです。ピアニッシモといえばもっと小さい音で、という使い方です。スローライフのようなものです。
「一番言いたいことはピアニッシモで語る」この姿勢を貫いた音楽家がいます。フランツ・シューベルトです。彼の音楽は同時代の言いたいことはフォルテで言うのと比べると正反対です。主張したいと言う気持ちが先立っているときは大きい声の方が効果的です。これはドイツでは当たり前のことです。主張するときは大きな声でするものなのです。謙遜とか謙譲とか謙虚いうのは高貴な精神性とは言われていても、実生活てそんなことをしていたら誰も見向きもしてくれませんから、自然とみんな大きな声で主張し合うようになります。私の意見が正しいと大きな声で言うのです。日本人の私にはそれが大変疲れるものです。そんな風土の中でピアニッシモで物申すを貫いたシューベルトは、何かが根本的に違っていたのだと思います。私は彼の中に潜んでいる東洋人気質だと思っています。
昨日北斎の富嶽三十六景をブログに書いたときに、彼が描いた富士山は何枚かの例外はあるものの、ほとんどが目立たない小さな富士山だったことに触れました。正直わたしにも意外だったのです。有名な大波の中に描れた富士山も印象的ですがすごく小さな富士山です。外国では The Great Waveですから、当然富士山は忘れられて大波に注目していてそういうタイトルになっているのです。
北斎が富士山をモチーフにしながら、いつも富士山を小さく描いたことはとても不思議なのですが同時に親近感が持てるのです。言いたいことを小さく語るというのはなかなかできないことです。そもそも自分を小さくするというのはなかなかできないことです。ヨーロッパではフランスのエスプリ、フランス風精神性の中に時々ピアニッシモに近いものが現れます。多くのシャンソンは、まるで独り言のようにモゴモゴと歌われています。愛の讃歌に張り上げる歌い方はある意味で例外的なものです。日本からの観光客がパリのホテルに泊まっていて、道路から聞こえてくる話し声を聞いていたらまるで日本語のようだったと言うのはよく聞く話です。
小さいと言うのは量的にみれぱ少ないと言うことです。ところが自分を小さくする、小さく見せると言うのは量的な問題ではなく、質の問題です。自分をすこぶる大きく見せようとする人ほど、実は中身がなかったりするものです。昔からよく本物の人にはなかなか出会えないと言います。老子も、語る人は知らず、知るものは語らずと言います。こういう言い方は東洋の神秘なのでしょう。