カントの遺産、批判の喜び。
ドイツの哲学者のエマヌエル・カントは理性、感性、行動の全てを批判的に観察していた人でした。この精神はその後のドイツ文化の礎になっていると思います。
近代的姿勢の中に、何事もまずは批判してかかれがあります。何でもかんでも簡単に信ずるなかれということです。批判というのはそもそも生産的ではないので、批判ばかりしていても。物事はよくならないということも事実です。面白い現象はよく人のことを批判している人というのは、自分を批判されるのをとても嫌がります。もっと酷いのが、自分自身を批判的に見ることは一切しないということです。
芸術批評というのがたいていの新聞にはあって、音楽界、演劇、映画そして本が批評されるコラムで専門家が色々と批評するのですが、私の知る限りでは、当の本人たち、芸術家たちはそんなものは全く読まないということです。批評、批判なんて読んでもなんの足しにもならないという観点から読まないと決めているのだそうです。
批判というのは最近はコメントというとすれば、今でもカントの批判精神はしっかりと受け継がれていることになります。ころんとをお願いしますとYouTubeではよく耳にします。
しかし人間には批判するだけではなく、褒めたりすることであるのです。些細な失敗を論(あげつら)ってみても仕方がないのです。何の役にも立たないです。失敗に目を逸らすことの方は大事なことです。よくできたところをはっきり指摘することも大事です。この方が物事を前進させるエネルギーになりそうです。
現代人はみんなお利口さんになってしまいました。頭がいいように見えるのですが、私にはそうは写っていません。物事に対して反感が異常なほどに強いのです。物事と対立するときには、相手の粗がよく見えるものです。そんなことを論っているのが批判であり批評です。粗探しより、そのものを理解する方が難しいものです。人は易きに流れるので、批判ばかりしているのです。
ほほめるというのは共感に基づいているので、相手や対象と一つになってしまうので、客観性化が乏しくなってしまいます。現代のように反感に満ちて、みんながお利口さんぽく見える世の中では高く評価されないものの一つです。理解は意志的な行為です。生きる意志です。相手の心の中に入ってゆくのです。物事にしっかり向き合うのです。職人さんが材料と一つになるくらいの勢いで、物事に接するとき理解が生まれるのです。理解するとは相手の意志を理解するということなのです。批判するというのは基本的には相手を蹴落とす行為と見ていいのではないかと思っています。ですからあまり上等な行為ではなくどちらかというと下品なものなのです。
現代という時代は意志のそだたない時代ということなのでしょうか。お互いが理解し合うというのが難しいのでしょうか。