美の続き
美は何かの陰だという考えがあ鳥羽にります。陰は陰湿な感じがし、美は華やかな感じですから、美と陰は正反対のようにも見えます。谷崎潤一郎の有名な著書「陰翳礼讃」は多くの外国の言葉に訳されています。日本的感性の中で育まれた陰りに宿る美をテーマしているエッセイです。西洋のキラキラした主張するものではなく、陰の中に美を見るのです。陰こそが美だと言い切るのです。西洋感覚からするとパラドックスに見えるかもしれないですが、違います。谷崎の生な体験に基づいたものに違いありません。彼がみた日本の美の体験は直球型ではなく、屈折したところを多分に持っています。歪で窪んだ完全でない茶碗が美を代弁しているのです。美ではなく物の存在の証です。
昔のことですが、一時期編み物に凝っていて、上から下まで、つまり帽子から、手袋、靴下まで、もちろんセーターやマフラーの類までなんでも手で編んでみました。子どもができた時には凝った模様を考えて「おくるみ」も編んで、それがなんと三人の子どもが順番に包まれ、さらに彼らの子どもにあたる五人の孫をみんな包んだのです。今も次に包む赤ちゃんを待っています。健在です。
自分で編んだものだけでなく手編みのセーターをみていると、既製品とははっきりとした違いが見て取れます。普通には風合いというのでしょうが、私には手で編まれた毛糸同士の間に生まれる陰が決定的な違いを産んでいるように見えます。その陰から生まれる微妙な動きが味わい深いのです。毛糸と毛糸の間に生まれるムラというのか不規則性というのか、とにかく機械編みでは見られない絶妙な味です。それは自分で編むようになってからはっきりと感じられるようになりました。
美学を専攻する大学の先生とお話をした時のことです。「美」を学問しているのですが、美がなんなのか未だによくわからないのです、と意外なほどあっけらかんとおっしゃるのでびっくりしたことがあります。わからないから研究しているのですよ、ともおっしゃいました。もう二十年ほど前の話ですから、今頃はきっと美がなんなのか見つけられたかもしれません。
神学というのも立派な学問です。イタリアのボローニャに初めての大学ができた時、その大学は神学のための学校でした。神様のことを研究するのですが、神様って研究してわかるものなのですかと、ある時親しくしている牧師さんに聞いたことがあります。わかりません、が答えでした。彼がいうには神様ってドーナツの穴のようなものなので、「あるのにない」という存在です。穴がなければドーナツではないのに、穴はドーナツではないのです。ドーナツに穴がなければドーナツではないので、穴は意味のあるものなわけですが、穴はどこまで行ってもドーナツにはなれないのです。神様もそんなものかもしれませんということでした。「ないという存在」のようです。
美は研究対象ではないので、探しても見つからないと思っています。神様のようなものです。ですから美学を専攻される方達、神学を件杞憂されている方達は大変だろうと思います。美は積極的に見つけようとしても見つからないものです。棚からぼたもちのようにただ待っている受動的なものの中にもないものです。その中間に中動的と言う言い方があるのだそうで、そこにありそうな感じがします。神様は少し違って、神の存在を信じた人の元に現れる存在のようです。
人間の行動パターンと言っていいと思うのですが、「あれかこれか」の選択型、「あれでもないこれでもない」となんでも拒否する型、「あれもこれも」という曖昧型が見られます。大抵は「あれかこれか」の選択ですから、白か黒かとはっきり分かれます。もしこの感性で美を見つけようとすれば、デザインされクッキリとした美になるでしょう。日本は「あれもこれも」ですから、靄がかかって輪郭はボケてしまいます。西洋と日本、お互い相容れない文化の基盤を持っていますから、西洋的な美と日本的な美とは相容れないものだと思っています。
日本は過去百年の間に西洋音楽をしっかりと受け入れてしまい、なんの違和感もなく音楽会が行われています。西洋音楽の中の聴きたい音楽を感じ取れるようになったということなのでしょうか。しかしどのようにして相容れない美を受け入れたのでしょう。ベートーヴェンと日本文化はどう見ても交わる接点がないように思うのですが、日本では暮れになると大掛かりな第九の合唱が各地で催され、多くの人がコンサートホールに足を運んでいます。大好きなのです。
最近西洋にも陰に美を感じる感性が育ち始めているのではないかと思うことがあります。なんでも言葉にしないとわかってもらえない人たちですから、なんでも表に出てきます。光の下に晒すのです。これをScheinと呼びます。この言葉と美しいを意味するSchönは根っこが同じ言葉です。日本の光は障子の和紙を通った淡い光です。陰を含んだ光と言えるのかもしれません。陰というより不完全なものを認める能力が目覚めているのかもしれません。去年は4700万人の外国客が日本を訪れたと言います。日本の何に惹かれてくるのかは様々です。食べ物、アニメ、質素な田舎の風景といろいろなものが日本にしかないということで求めてやってきます。焼き物や、刀鍛冶を習いにきている人もいます。至る所に日本の陰を重んじる文化が根底にあると思っています。なかなか言葉にならない分神秘的なのでしょう。ドーナツの真ん中の穴のような存在しないところにいる神様のようなものを感じて生きているのが日本であり日本人ということになりそうです。
イエスキリストの教え、イエスキリスト自身とその後の制度化したキリスト教会とは相容れないれないものを持っているように感じています。足を洗うイエスの姿など、思いやり、気配り、おもてなしの精神に通じているように思うのです。日本は案外原始キリスト教的なのかもしれません。自分を見せるのではなく陰のように振る舞うという妙技が日本的なのです。