ペンタトニックの不思議、もう一度
ペンタトニックは付き合えば付き合うほど不思議な現象を浮き彫りにしてくれます。
ドレミファソラシドのうちのドとファがないだけで、全く違う世界になってしまうのですから。
繰り返しますが、ペンタトニックは終わりのない世界、終わらない世界、終われない世界を表現していますから、ペンタトニックを見る限り冗談の好きな魔法使いではないかと思いたくなります。
でもそれだけでなく、五度の音程が根底にあるので、平均律という調律からは得られない、純五度という伸びのある調律が可能だといわれています。純五度ですから更なる魅力です。数学的な世界にまたがっているのがペンタトニックなのです。ただ三文の二という、割り切れない数が出てくるのですから度肝を抜かれてしまいます。純五度と言いつつも数字的には三文の二ですから、0.666666666・・と解決がつかない割り算になるのです。音的には純粋と言われるのに、数字的には割り切れない不純なものなのですから、立派に矛盾した話です。音楽というのはどこまて言っても矛盾だらけの世界を私たちに見せつけてきます。
ということは純粋な五度というのも数学的には存在しないということで、平均律が不純な調律、嘘をついている調律といわれるのと、大差のない割り切れない話になってしまいます。
「終わり」ということについて考えてみます。つまり「終わりない世界」をです。「終わらない世界」をです。「終われない世界」をです。
終わるということの周辺には色々な形態、解釈があるのにおどろきます。生まれるというのを見るとずいぶん違います。産むと生まれるの二つしかないですが、それは主体がどちらにあるかの違いだけです。ところが「終わり」という事象は違います。人生を終わらせる、というと自殺でしょうか。あるいは人生には終わりがないとなると、人の命は短く芸の道は長しというような感じでしょうか。終われないというのは、あまり具体的なイメージが持てないものです。昔あった感覚なのでしょうか。それともこれからくる新しい感触なのでしょうか。
私たちの人生理解は今の時点では必ず死ぬものとして説明します。人生は死を以って閉じられます。人生の終焉と言う言い方があります。終わりのあるのが人生の最後の頃を味わい深く浮き彫りにした言い方です、特別な郷愁がある意味深い言い方です。ところがペンタトニック的な人生をここに持ってくると、終わりがなくなってしまうのです。滑稽というのか、不謹慎というのかわからなくなってしまうほど不思議です。そんなことでいいのでしょうか。当然現代的な人生観には相応しないのがペンタトニックというものです。
死ぬというのは現代的に見ると病気との関係で理解されているようです。何かの病気で死ぬということで、老衰というのは、死因としては第三位なのですが、正式に死因として認めにくいという話を聞きます。心情的に見ると死因は老衰なのにそれでは科学的ではないと考える医者がいるということです。つまり人間は科学的にしか死ねなくなったということのようです。ところが昔は寿命で死んだということはごく当たり前の言い方だったのです。極端な言い方をすれば、事故で死んだときにも寿命とか、運命という言い方が使われたものです。
ドイツの中世に使われて古い言い方に「Todes sterben」というのがあります。このブログでも何度か別の観点から取り上げたことがあります。これは直訳すると「死するがために死んだ」というわけですから「死んじゃったんだよ」とあっけらかんとしている感じがします。ヨーロッパで中世の絵画の残されている教会に行くと、聖書の話が物語風に天井画などで見ることができます。それらの絵は現代的表現とは別のもので、たとえばイエスが亡くなるときに十字架にかけられている場面などでは、イエスは悲痛な顔などしていないのです。なんだかニコニコしている風でもあるのです。死んだのに悲しくないのです。
生と死とが同居しているのだと私は説明しています。死ぬということが、何かの終わりではなかったということなのかもしれないと私そうした絵画を見るたびに思うのです。
先ほどの「老衰で死ぬ」では、なんだかちゃんと死んでいないように思われてしまうのでしょうか。現代的には、病名がはっきりして初めて科学的に死んだのです。つまりちゃんと死ぬには科学が必要だということです。
そうした風潮の中ではペンタトニックでできた音楽など、終わりがないのだから科学的ではないと無視されてしまうのかもしれません。
それなのにジャズ音楽ではいまだにペンタトニックがふんだんに使われていますからジャズはのっけから科学的な音楽ではないのですかね。
まだまだペンタトニックは語り尽くされていないような気がしています。