ブラームスの間奏曲op117-1
この曲は既に「光のなみだ」に録音していますので、私のCDを持っていらっしゃる方はそれを聴きながら読んでみてください。
私の得意でないブラームスということで先日ブログに書いたのですが、自分の録音を聞いてみると、意外と聞けて、そんなに苦手扱いする必要はないのではないかと思いました。ライアーでこの曲が弾けるなんて楽しいと思います。ただピアノが得意な複雑な和音は省かれていますし、鍵盤とは違い弦のタッチに気をつけないといけないところがあり、難儀していました。
自分の演奏というのは、何度も言うようですが簡単に聞けるものではないです。講演の録音も聞きたくはないものですが、音楽の録音はもしかするとそれ以上かもしれません。聞いていると恥ずかしくて、穴があったら入りたいくらいになります。この曲に関しては不思議で、途中で機械を止めることはなく最後まで聞けましたから、例外です。
ブラームスの音楽は私が今まで録音した音楽とは違うものでした。それまでに録音した音楽は基本的には音楽が踊っているというのか、音楽そのものが動きたくなるものでした。ブラームスはピタッと止まってしまいます。これはピアノの楽譜からライアーの楽譜にする作業の時にも感じていたものでしたが、今回久しぶりに聴いていて、録音当時を思い出し、馴染むのに時間がかかったのがこの動かない部分だったことを思い出しました。多分そのため曲がCDの最後になったのだと思います。
何度も言うようですが、私向きの曲ではないので、何度も練習で弾いていると、血液の流れが止まってしまうように感じ、その時は弾くのをやめまたこともありました。
これが私のブラームスです。私の友人の中にはブラームスが大好きな人が何人かいるので何度も一緒に聴くことがありました。不思議とブラームスが好きな人と聞いていると、一緒に音楽の中に入れるものなのです。その時だけはとても近い音楽に感じていました。これと同じ体験はジャズでもしました。妻の兄が大のジャスファンで、よく誘われてコンサートを一緒したのですが、一人で聞いている時には感じない「ノリ」を感じたりするのが不思議でした。だから好きになるかというとそんなことはないのですが、好きな人と一緒というのは不思議な吸引力があるものです。余談ですが、新しい車を買う時には、必ず車が大好きという友人に一緒してもらうのです。いい車を引っ張ってくるような気がしていました。
ブラームスはロマン派というジャンルに属するのですが、私は未だ何がロマン派なのかがわからないでいます。ロマン派の作曲家というとシューマンや、ショパンがいます。シューベルトもそこに組み入れられることがありますが、シューベルトはロマン派とは違うと思っています。ワーグナーも時代的には重複していますが、ロマン派ではありません。ブラームスは間違いなくロマン派の音楽家です。では何が彼をロマン派と呼ばせるのでしょう。ロマンチックだからでしょうか。そうではないでしょう。きっと音楽がとても主観的だということのようです。自分が中心という感じです。それまでの音楽は誰かのために書かれたものだったのです。それがロマン派では自分のためにというスタンスになったのです。
オタクという言い方があります。自分に興味のあることだけに長けている人を指していうのです。オタク同士がお互いを名前で呼ばずに「オタク」と読んだことに由来しているようです。今日のオタクとは違いますが、ロマン派はオタクの走りかもしれません。ロマン派から音楽は自己中になったような気がします。ロマン派以降の音楽はその自己中を打開するための努力のような気がします。音楽の客観性に憧れるのでしょうが、血の通わない音楽がそこから生まれたような気がします。芸術に客観はないからです。
芸術の本質は作品ではなくプロセスです。この考えは将来もっと評価されるものになると思います。形になる以前の、未だ形をとらないもの、それが芸術の本質です。
そこに視点が行けば区分けは芸術になくてもいいということになります。
子どものどろんこ遊びが、誤解しないでいただきたいのですが、一番芸術的と言えるのからです。「何流のどろんこ遊び」なんてナンセンスです。
ブラームスを書くつもりがとんでもないところに来てしまいました。