自分らしく
生きているというのは、いろいろなレベルが含まれています。事故や病気で意識を失って。植物人間のような状態もあれば、記憶がなくなっている人もいます。アルツハイマーなどです。心が病んでいる人、精神が病んでいる人もいます。
そういう状況にない人たちも、自分というものと周囲の状況と格闘して生きていますから、生きるというのはどのような状況にあろうとも大変なものです。
私たちは自分というものをコントロールして生きています。実はこの自分をコントロールしているのも自分というものなのですから、複座地なものです。自分には二つの異なった働きがあるということです。よく分裂しないで生きていると思います。
自分をイメージするということをいろいろなときにやっています。洋服を買うときに、似合うかどうかはイメージしているのです。あるいは今回は少し派手なものを買ってみようかというときにも自分をイメージしながら作戦をねって洋服を決めているのです。
あるい人生設計をするときもやはり自分をイメージしています。一生懸命勉強していい大学にゆくか、手に職をつけてものづくりの人生を楽しむか、いずれにしろイメージがないと、太平洋に丸太に捕まって浮いているようなものですらか、漂流です。木の葉が風に舞うようなものです。野垂れ死んでしまいます。
自分らしくというのが最近ではよく言われます。昔は、少なくとも戦前は自分らしくなんていうことはほとんどタブーでした。自分を向かってくる状況に逆らわずに合わせたのです。我慢、忍耐というのが目指すところで、自分らしくなんて口が曲がっても言えなかったのです。そんなこと言う人間は変人扱いされたに違いありません。どんな状況にでも臨機応変に合わせられるということも言われたのでしょうが、多くの人はそんな余裕もなく、がむしゃらに、状況をこなして生きていたのだと思います。
自分らしくと言える時代ですが、こんな話もあります。友人で大学で教鞭をとっているのが、就職活動をしている学生と話していてこんなことを言われたのだそうです。「先生私にふさわしい仕事につきたいのですが、どこか紹介しいてただけませんか」友人は顔には出さなかったけれど内心度肝を抜かれたと言っていました。「甘えるな。なんでも自分に向かってやってくる状況をこなすことで、若いうちは育つのだ」、と言ってやったそうです。
自分らしいものを書こうと思ってもなかなか書けないものです。今一番悩んでいます。
一番障害になるのは、自分が自分というものをイメージしていて、それにふさわしいのを書こうとしてしまうことです。自分で自分が作った鋳型に嵌め込もうとしてしまうのです。そいうものは次の日読み返してみると、「またか」という呆れた感情が込み上げてくるのです。
自分らしいというのはも究極的には、自分でイメージしたものにとらわれないで、自分がだらしなく居られるところにのんびり居るということのようです。リラックスという人もいるかもしれませんが、リラックスもやはりどこかでイメージされているようにも思います。
居心地のいい場所と時間を作ること、これが最良の道ではないかと考えます。