縄文の美
真・善・美あるいは宗教・学問・芸術というふうに三つを一組にして私たちは何かを説明しようとしています。何かというと人間の核を形成しているものです。
三つというのは惹きつけられる数字なのでしよう。早起きは三文の徳、三種の神器、聖書にあるイエスの誕生に駆けつけた東方からの三博士、ドイツの諺にも「いいことはみんな三回する」と至る所に三が並びます。
幾何学的には三本の線から始めて面積なるものが生まれます。閉じた空間ができるのです。逆に閉じた空間を作るには最低三本の線が必要だということです。
真善美という三つを考えるときに、一つ一つの意味を吟味してゆくのも一つの方法ですが、この三つで始めて人間の精神性がまとまったものになると考えてはどうでしょうか。人によって真の捉え方は違いますし、善も美も同様です。真前後の平均など出しても全然意味を成しません。
真善美は元々は哲学の概念に過ぎないので、抽象的でかつ一般的なものです。最近そこに気が付きました。それぞれの真善美の長さや太さは一人ひとり様々だったのです。おんなじ真善美の空間はないのです。
人間の心はある空間のようなものだと考えます。場所と言ってもいいかもしれません。居場所です。ドイツ語で心のことはSeeleと言いますがSeeが海とか湖ですから、Seeleは小さな湖隣、岸くも面積を持っているのです。大きな湖の人も小さな湖の人もいるわけです。必ずしも正三角形にならなくても構いません。線はくねくねしているかもしれませんからほとんどが歪な三角形だと思います。
この真善美に囲われて精神性を含んだ感情的なものが心の中で営まれます。感情とは三つから規定されていて、中身はというと混沌としているものです。人によって善が優っている人もいれば、真が優っている人もいれば美が優っている人もいます。個人だけのことではなく、民族的にもそれぞれの特徴があります。ドイツなどは真が優っていますし、フランス・イタリアは美が優っています。
日本も美という世界が優勢なようです。もちろん他の二つもしっかりとあるのですが、私は美に軍配をあげます。それは日本の美意識には西洋の美に感じる用途としての美を感じずに、存在としての美を感じるからです。森羅万象、自然の中の至る所に美を見つけ出します。それが和歌を作り、俳句を作り、様々な文学的表現の中に浸透しています。
神は細部に宿ると言います。この延長には宗教的なものが見えてきそうですが、私には神様と同時に美も見えてきます。しかも日本での美は至る所に宿っているのです。神と美とは同義的に扱われるどころか神は美の後ろに隠れているような気がするのです。神は細部かもしれませんが、日本では美が至る所に宿っています。
最近脚光を浴びている縄文文化ですが、そこに見られる土器の美しさには驚嘆の思いでもっていつも接しています。写真で見るより実物を見るとその深さに惚れ惚れしてしまいます。現代の造形センスに通じるものを感じます。この美意識を私たちは継いでいるのかと思うと、縄文人の心と一つになれるような気がして嬉しいのです。
日本の文化には当時からの美が貫いているのです。