コンピュータの読む日本語
日本語は読むのが難しいと外国語として日本語を学んでいる人たが口々に言います。
コンピューターが読んでいる日本語を聞いていても、日本語を読むことの難しさを実感します。大国主命なんてコンピューターが読んでるのを聞いているだけだと何を言っているのか全くわからないほど頓珍漢です。
難しいのは漢字全体に言えるのですが、特に訓読みと、当て字のような読み方です。ひらがな、カタカナは表音文字なので、あるファーベート的に接しているようでなんら問題はないようです。
文脈の中で読み方が異なってしまうのはもう慣れるしかないものです。日という時は今日、明日、初日、日の出、日進月歩というふうに、何通りにも読み変えなければなりません。
これは日本人にしても難しいことなのですが、日本人は場数をこなしていることで、文脈から読んで、それが習慣になっています。そのため意味を想像する訓練ができているので、かろうじてクリアーしていますが、準備なしで声を足して原稿を読んで間違いなく読み切れる人は特別の訓練を詰んだ人で、相当の場数をこなした人のはずで、一般の日本人ではどこかで突っかかってしまいます。
論理的なことを述べる言語としてそれでいいのかと思うこともありますが、フランス語にもある程度似ている状況があるので報告しておきます。正確でないと言うことに関して日本語に限ったことではなく、言語にはつきもの寛容ととも解釈できます。
フランス語にはdictate書き取りの競技会という珍しいものがあります。誰が参加してもいいのですが、当然ですが我こそはと思う人しか集まらないそうです。言語学者、文筆家、ジャーナリストという文章を書くことが職業の専門家達の間での比べっこです。ここで百点満点を取る人はいないと聞きました。
フランス語は音声と文字表記の間に相当のずれがあることはフランス語を習ったことのある人ならご存知だと思いますが、音で聞いた言葉がどう綴られるかは、微妙な文脈の中で変わることがあるのです。例えば車で有名なルノーというのは何通りかの綴り方があるのです。これは日本語の漢字の読み方の複雑さに共通しています。
日本文化がフランスでことの他人気があるのはこうしたとこに共通点があるからなのではないのでしょうか。曖昧さと寛容とは芸術感性の一つの要素なのかもしれません。
そんな複雑なことは廃止して、もっと簡略化して、誰もが間違わずに綴れるように、また読めるように整理して簡略化したらいいと考える人もいるようですが、未だ実現していません。
フランス語と日本語には難しいことを好む意地悪な習性があるのでしょうか。それともその複雑さはその言葉の特性として誇りに思っているので、今なお続いているのでしょうか。
アラビア語は文字で綴る時、子音だけを文字で表記して母音は暗黙の了解に任せていると聞きますが、これも外国語として学ぶ時には高いハードルになっています。
少し話が飛びますが、俳句を学ドイツの友人と話をしていて、「言葉にしないところが俳句では重要と聞くが、日本人はそのことをどのように理解しているのか」と聞かれました。その時まず思いついたのが、日本神道では他の宗教が持つ教義が成文化されていないということでした。よく言われる「こと挙げせず」という言葉にしないということです。このドイツの俳人は、言葉にしなければわからないではないかと言って自分の主張を貫こうとします。言葉にしていないことはないことだと言わんばかりです。キリスト教の文化の中で育っているので、「初めに言葉ありき」が大前提ですから、全ては言葉になると信じて疑わないのだと思いました。こと挙げせずなどは言い逃れみたいだと言い切ります。もちろん彼の作っている俳句は何を言いたいのかがよくわかる俳句ですが、味気のないつまらないものです。
日本語をもっと学びやすいものにしなければならないというのは、ノーベル賞作家のカズオ。イシグロ氏が「最近の英語の物書きは、英語でしかいえないような特殊な言い方を避けて、他の言葉に翻訳されやすいように、書く傾向がある」と指摘していることにも気腰痛するような気がします。