感覚と判断
感覚は間違わない、しかし判断のところで間違いが生じる、とゲーテは考えていました。そのことを納得した時、彼の目には何が見えていて、そこから判断に至るまでの過程をどういうものと見えていたのかと興味が湧いてきました。
それまでは感覚と判断とは一つのものと見做していたことに愕然としたのです。最近の脳の研究によると、判断というのはほとんど先入観のようなものだと言われているようで、ゲーテの先見の明には驚かされます。
私たちは何を見ているのかではなく、何を信じ込まされているのかという存在のようです。つまり先入観の塊だということです。
人の話を聞いている時にも話半分でもう結論を導き出しているということにも通じるものです。結局人の話を聞いていても、自分が聞きたいところだけを聞いているということです。自分の都合というものが世の中には満ち満ちているのでしょう。
先入観をぶち壊すことから始めなければ何も始まらないということのようです。
先入観がどのように作られてゆくのかは研究の価値のある仕事だと思いますが、相当の部分が無意識の中で形成されているはずなので、研究と言っても想像するしかないもので終わる可能性が大きいでしょう。それよりも、どうやったらぶち壊せるのかに努力する方が実りが大きいと考えます。
制度となってしまったものもよく似ています。新しいものに取り組むとき、そこに大手を広げて行く手を塞いでいるのは「前例がない」という目上の人たちの薹(とう)のたった基本姿勢です。あるいは「旧態を維持するための執拗な執着」は徒党を組んで進んでいるので、少人数の小さな力がそれに立ち向かうことは必死の覚悟が必要になります。政治の中で働く利権の渦は途轍もない力でスカラ、大潮の時の鳴門の渦潮くらいはあると思われるほどの規模です。
一朝一夕には壊せないものですが、制度には必ず内部から崩壊するという盲点があるので、そこに委ねるのも一つのあり方ですが、もう一つは教育を変えることです。教育が現行の制度のための人材を育てることに力を注ぐのではなく、その制度を壊す勇気を育てるようになれば、社会の舵取りはゆっくりですが変化が生まれるものです。社会全体にその機運が生まれることが望ましいのです。
個人の問題としては、先入観は時間をかけて作られてきたものですし、その形成プロセスは無意識の中にあるので、そこに手を入れても混乱をもたらすだけで、解決にはならないので、形成に費やされた時間と同じくらいの時間をかけて崩してゆくことしか方法としてはないようです。
自分という意識も潜在的に作られてゆくので、自分を変えようとしている人は、その潜在的な自分に立ち向かうことが難しいので、自分一人の力では成就しないものだと思います。自分形成が外からの働きかけでなされたので、新しい自分形成もやはり外からの力が必要だといえると思います。
今まで関わってこなかった知らないことに自分を向かわせることが良策です。価値観を変えることが肝心なので、詰まらないことだと思ってたようなものも効果的です。
価値観が変わると、感じ方まで変わってきます。感覚を通して感じていることに素直になれるということかもしれません。そうなると判断は必要なくなってしまうような気がします。他人をコメントすることも無意味に見えてくるかもしれません。