ルッチフェルとアーリマン
シュタイナーはこの二つの存在の働きを、いろいろな状況で説明しています。
実はその複雑さゆえ、この二つをはっきりと分類することが難しいので、本当は避けて通りたいところなのですが、ブログで嘘のことに触れた時に、念頭にこの二つの存在があったので、このことに精通していらっしゃる方からのお叱りを覚悟で、少し書いてみます。
小説などの文学を光の中の嘘と言いましたが、これはルッチフェルの世界のことです。芸術というのはある意味ルッチフェルのよって導かれているものだからです。ルッチフェルがいなければ芸術は人類にもたらされなかったのです。ルッチフェルを思い切って悪魔と呼べば、芸術というものはそもそもは悪魔的であるといえるものなのです。芸術家たちのプライド、驕り、自惚などはルッチフェルからのものだと思います。ただ芸術全体を悪魔の仕業だというような言い方は勇み足で無理のある言い方です。
ルッチフェルは堕天使と呼ばれています。あるとき天使の位階から堕ちたのですが、そもそもは光の天使とも言われていたのでした。何故堕ちたのかの説明は私たちの理解を超えているものです。余談ですが、オランダではマッチのことをルッチフェルと言います。蝋燭に火を灯すとき、ルッチフェルを取ってくれ、と普通に言いいます。初めて聞いた時にはびっくりしました。マッチ棒のリンがマッチ箱の脇の細かいヤスリ状のものと擦れると火がつきます。一瞬明るくなります。これがルッチフェルなのでしょう。この炎は元は光の天使であった姿を思い出させます。ところが、この炎は長くは続きません。マッチ棒はポプラの木でできているのですぐに燃え尽きてしまいます。本来の天使であれば光り続けているのでしょう。シュタイナーはこの悪魔的な存在を、悪者として見ることはなく、この存在は人間を助けている存在だというのです。
同様にアーリマンも悪魔と呼ばれ、そのようにみられていますが、実は人間を助けている存在なのです。アーリマンは機械文明の背後にあり、ミヒャエル・エンデがモモの中で描写した灰色の男の背後にあって、操っているのかも知れません。そして権力というものになりすまして暴れまくっているのかも知れませんが、だからといって絶対悪のような存在ではなく、悪者の姿をして実は人間を助けている存在なのです。
ルッチフェルとアーリマンの二つの力によって人間は、よく言えば導かれていて、悪く言うと誘惑されているのです。そしてシュタイナーの指摘するところによると、一方の力が大きく人間に働きかけているときは、相手方の力もバランスを取るように働きかけているということです。これは大事な観点だと思います。
ここまでくらいだとルッチフェルとアーリマンは別のものして捉えられるのですが、ここから先にシュタイナーが詳細に言うところを追ってゆくと、両者をはっきりと分けることが難しくなってしまいます。知識でしか語れないものたちが、生半可な理解で発言すると、説得力がないだけでなく、また誤解どころか間違ったことを述べることになってしまいます。私にはこの危険を犯す勇気はありません。
現代の世界情勢を見渡すと、確かにアーリマン的な権力闘争や、経済的な駆け引きが目につきますが、先ほども言ったように、その反対からルッチフェルの力も働きかけているのです。政治家たちの自惚、驕りはルッチフェルからの働きかけと言えるのではないのでしょか。政治の世界は権力闘争と、自惚の錯綜した迷路のような世界です。
ただそうした混乱と矛盾が、深い意味で私たちを助けているのだとシュタイナーは考えていたのだと思います。ルッチフェルとアーリマンは私たちを強くしてくれているのかも知れません。
そしてその真ん中に真実が存在しているというのです。