記憶と思考
最近のYouTubeを見ていると、野生動物を拾って育てた動画がずいぶんアップされてました。オオカミ、ライオン、キツネといった普通では考えられないような動物が、幼い頃から育てられたことで、育ての親である人間を親代わりに感じている姿でした。とても心温まるもので、野生動物がこんなにもなつくことが不思議でなりませんでした。
動物が飼い主と深い関係を作れることは、私自身子どもの頃に短い時間でしたが犬を育てたことから経験があり、想像できるのですが、本来獰猛な野生動物と人間の間に築かれた信頼の映像の数々には驚きでした。
動物の記憶力のいいことは有名です。若い時にアルバイトをしていた牧場でのことを思い出します。そこではオスの子牛を放牧ではなく牛舎で大きく育てて肉牛として出荷していました。オス牛は小さい時に去勢されます。その方が大きくなってから男性ホルモンが出てからの肉よりも柔らかいので高く売れると言うことでした。
去勢がどのようにされるのかは現場に居合わせたことがなかったのでわかりませんが、聞いた話で激痛があると言うことでした。そのためその場に牧場の飼い主は決して同席してはならないのです。その時の激痛の記憶が飼い主と重なることを避けるためでした。飼い主がその時の記憶に残っていると、その後の関係が悪くなってしまうと言うことでした。
動物の記憶力は人間のとは違うものだとその時初めて知ったのですが、今回のYouTubeの心温まる話は、その真逆のケースで、いつまでも忘れずにいたことの美談です。
動物の記憶力は人間のとは違い、いつまでも覚えています。見方を変えると忘れることができないとなります。そこが人間と違うのですが、人間は忘れることができるので、世話をうけたことも忘れたりする薄情ものとなることもあります。
忘れることを人間が獲得した才能と認めたシュタイナーは、人間はそのことから思考する能力得たと考えていました。忘れることで考えられるようになるのです。ただ忘れるのではなく、思い出すという特技を人間は持っています。
忘れるとか思い出すと言うのは、そのための訓練方法が知られていません。記憶術と言うのは聞いたことがありますが、思い出し術は未だ聞いたことがありません。科学でもまだ解決していないことのようです。
忘れてくださいと言われても忘れられないものもあれば(トラウマなど)、忘れるなと言われていても忘れてしまうものもあるので(アルツハイマーなど)、まだ記憶力をコントロールできるところまでは行っていませんが、考える世界には少しだけでも参入できたのでしょう。
記憶と思考を並べてみると色々なものがよく見えてきます。
実はドイツ語の古い言い方では、考えるは思い出すと言う意味で使われていたものです。ドイツ語を見る限り、思い出すと考えるは同列に並ぶもののようです。考えるを思いつくとするとどちらも明るく煌めいています。幸せな瞬間です。
ところが最近の考えるはそうした煌めきを感じません。なんだか辻褄を合わせるだけの仕事のような気がします。考えられると言うことは嘘も考えだします。言い訳、ごまかしなどは本来の考えるからは遠いいものです。なんだか世の中段々と暗くなってゆくような気がします。
思い出す、考える、思いつくという瞬間をもっと評価できるようにならなければならないのです。いつも言っている直感の世界です。現代人は、洗脳されているだけで考えていないのではないと言いたくなります。先入観の塊です。人類が考えられるようになれば世の中絶対に変わります。洗脳されている限り、いつまでも堂々巡りをしているだけです。本当に考えたら世の中は良くなって行くような気がするのは私だけでしょうか。