私とライアー

2025年3月16日

音楽は演奏によって同じ作品でも全く別物に変わってしまいます。演奏は魅力に満ちていますが、見方によっては魔物で、間違えるととんでもないことになってしまいます。

弾き方の違いで音楽が変わると言うのは、昔クラシックギターを弾いている時からの問いでした。当時私はセゴビアと渡辺範彦氏の演奏からそのことを学んでいました。二人とも独特な演奏スタイルの持ち主でした。

弦楽器だけが弾き方を問題にしているのではなくて、吹奏楽器でも、打楽器でも同じです。

ある時筑波でやったライアーの会に和太鼓の方が参加されていました。その方は半信半疑で参加されたと言うことでしたが、会が終わってお話ししている時に、ライアーの演奏と打楽器の演奏にこんなにたくさん共通点があるなんてと感動されていました。

今思うと二つの点が興味深いと思っています。

一つは力の配分です。基本的には力を抜くと言うことです。その方は太鼓を叩く先に力任せで叩いたらいい音がしないとおっしゃっていました。それどころか太鼓の皮が破ることもあるそうです。いい音と言うのはよく響く音と言うことです。いい音は遠くまで響くと言っていました。

弱い力で太鼓を叩くのでは意味がなく、力強く叩かなければならないのですが、叩くという働きの最後の太鼓に触れる瞬間に力を抜くということを提案しました。これはライアーの弦を弾く時にも同じで、力任せで弾いたらキンキンとした硬い音になりますし、弱く弾いたのでは弦がだっぷり響きませんからつまらない音になってしまいます。最後のところで力を抜くのです。力を抜くことで弦がゆったりと、しかしたっぷりと響くのです。吹奏楽器も息を力任せで吹き込んでは音が固くなってしまいます。最悪の場合は音が割れてしまいます。息を吹き込む時には息を吐いているのですが、意識の中では吸っていると言う、聞いただけでは矛盾していることをしないと、よく響くいい音は生まれないのです。吹いているのに割れている音は、オーケストラ全部を包み込んでしまうほどです。

これが力を抜くと言うことで、どの楽器にも共通する点です。力を抜く、脱力、リラックスできると言うのは、力を入れる、力むということよりずっと難しいことはよく知られています。ヴァイオリンを始めたばかりの時はギーギーと耳障りなうるさい音です。力任せで弾いているからです。だんだん上達すると、弾いている本人の耳が肥えてきますから、その音から次のステップへ行きたいと思うようになります。そこで先生に言われるのは先生によっては色々な言い方をされると思うのですが力を抜くと言うことです。

この点に関しては以前にも述べたことがあるので繰り返しになります。

もう一つの点についていうと、それは指先や呼吸の時に働いている感触です。その感覚がどこから来るのかというと感覚からです。その感覚は触覚です。触覚というのはただものに触っている時に感じているだけのものと思われがちですが、もっと総括的に周囲のものを感じ取っている感覚なのです。聞く時にも、ものを見る時にも、熱を感じる時にも、自分の動きを感じる時にも触覚が働いているのです。そのことは複雑なのでここでは省略して、別の機会に回したいと思います。もちろん一番はっきりしているのは指先でモノに触っている時です。あるいは足の裏で大地を感じている時です。

ライアーの弾き方を習う時に、腕の動きが流れるようにということを言われます。それは正しいことなので、是非硬くならない流れるような動きの中でライアーは弾いてもらいたいのですが、一つだけそこに加えたいと思います。

弦に触れている時の触覚からの感触についてです。触覚というのはただそこに物があるということを私たちに知らせてくれているだけでなく、ここに私がいるということを知らしめている感覚でもあるのです。

真っ暗な中を手探りで歩いている時のことを想像してみると、そこに物がある、障害物があるということを触覚によって知ります。と同時に、今自分がここにいるということも伝えてくれているのです。触覚によって自分という存在を確認しているとも言えるのです。

つまりライアーで弦を弾く時には、触覚を通して自分と向かい合っているのです。しかしそれは感覚の中で起こっている、感覚体験ですから意識的に感じることはほとんど不可能です。全て感覚的なものというのは私たちの意識では捉えられない0,1秒くらいのスピードだからです。もっと俊足かも知れません。

ただ気持ちの中でそのことを思って弾いていると、音がよく響くようになるし、自分の音と言えるものに近づけると思います。

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